体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

『たのしい体育・スポーツ』 11月号№296 菅実践を読む

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,『たのスポ』11月号の菅実践を読みます。

以前も,菅さんの実践記録を読んで書いたことがありますが,今回もまた書いてみたいと思います(「みんなが楽しめるフットボールをめざす『お祭りフットボール』」を読む )。

この実践記録も,先日の本田実践とは違うものの,同じように教師の信念というかナラティヴが書かれているからです。


写真は,和歌山の名湯,花山温泉

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では,どうぞ。

 

菅さんの実践のタイトルは,「お祭りフットボールで何が『できる』ようになるのか」である。

特集が「『できる』ことの価値を問い直す」なので,ある意味では自問のような問いが出される。

これに対する自答はまたあとで語られることになるのだろう。

 

「はじめに」がいい。

菅さんは,自分自身が小学校から競技サッカーにのめり込んできた。

しかし,そのサッカーを授業でしたところうまくいかず,挫折したという。

その理由として以下のように語っている。

この語りが当時のサッカー指導に対する最初の信念というかナラティヴだった。

 

つまり,サッカーはボール操作が難しいから,ボール操作ができるようになれば楽しめる,好きになると思い,「ボール操作を重視したサッカーの授業」をした。

しかし,子どもたちは喜ぶことはなく失敗に終わったという。

だから,このサッカー指導に関わるナラティヴは,書き換えられなければならなかったのである。

では,どうやって?

これがこの実践記録の主題となるのかどうか。

 

その後,担任した6年生には,じゃまじゃまサッカーの一人1球バージョンからスタートした。

そうしたら,効果は絶大で面白いという感想が増え,しかも,休み時間には男子がサッカーをやるようになったという。

 

実はここが聞いてみたいところ(ツッコミどころ)なのだが,「多くの子が嫌いなサッカー」を,「自分たちでルールを変革していくことで,サッカーが楽しいと思えるようにしよう」と話したと書かれている。

サッカー嫌いが何によるもので,どういう話し合いでどんなルール変更をして,じゃまじゃまサッカー一人1球バージョンからスタートしたのかが書かれてほしいところだ。

サッカー(のみならずボール運動)が嫌いという子どもは高学年になれば増えるだろう。

そのときに,どんなオリエンテーションをしたのか,どのように合意をつくっていったのかは,おそらく多くの人が知りたいところだ。

 

さて,その休み時間に行っていたサッカーは,いわゆる団子状態のサッカーであり,組織的なプレーとはいわない,初期的な様相のサッカーだった。

そして,菅さんは子どもがすごく楽しそうに「眼をキラキラさせながら」やっている姿に打たれるものがあった。

だから,「うまくなる」「できるようになる」ことで楽しめるようになると信じていたが,そうではなく,未熟でも,子どもは熱中,没頭できるのだと思ったという。

ここに,サッカー(フットボール)の魅力があると感じるようになった。

これが,菅さんの最初のナラティヴの書き換えである。

 

書き換えられた信念は,ただし二項対立になっている。

それは,「シュート場面の技術を媒介として教え合い,学び合うことは,教師にも子どもにも何を学ぶのかがはっきりしていてわかりやすい」ということと,「ゴールのためにコンビネーションを駆使し,作戦や戦術を立てることが球技の特質であれば,フットボール(サッカー)は魅力のないものとなる」という二項対立である。

これはもちろん,菅さんの中にある二項対立だ。

 

菅さんの挫折はそれほど大きかったのであり,それ故に「サッカーの技術を教えることで子どもはサッカー嫌いになる」という信念もまた強固なものとなっている。

しかし,この二項対立は教師が持つよりも,子どもたちの中にあるものなのではないかとつい勘ぐってしまう。

教師が持ってしまえば,挫折経験があるため,自分の中ではどうしても後者を選択する。

しかし,子どもの中にはボール操作が難しいから技術・戦術行動をやることで,ますます嫌いになる子もいれば,よりレベルの高いサッカーを目指したいと思う子もいてもおかしくない。

 

この二項対立が確かめられれば,それを止揚するために,両者の主張をどうルールや技術・戦術学習に落としこんでいけるのかという学習が始まる。

そう。

これは,かつて制野俊弘さんが2007年の冬大会で報告した,リレーの持つカーニバル性と競技性をどうやって統一しようとしたかという実践という本歌がある。

さらに,矢部英寿さんのバレーボールの「ラリーか,スパイクか」という実践もまたこの実践の本歌である。

制野さんは,フットボールの持つ魅力として,押し合いへし合いで人間の実存を感じることをあげ,それをとても重視した。

しかし,制野さんはそこからルール作りへ向かうと述べていた。

つまり,押し合いへし合いの段階にとどまらないということだ。

 

それは,近代スポーツは一部の人が楽しめるが,多くの人は楽しめないから,すべての人が楽しむにはどうしたらいいのかという理想を掲げた問いを発するところから来るのだろう。

 

菅さんのナラティヴは,おそらくまだまだ変化する可能性がある。

可能性の1つは,先の,より多くの子どもの要求を満たすだけのサッカーのルールや技術を子どもたちが探るというものである。

 

あるいは,みんなが短時間でうまくなることによって,より質の高い楽しみ方を見いだすことができたというものである。

しかし,それにはうまくなっていくための方法が合わせて開発される必要がある。

それは,山本まあさんがビックリするぐらい時間をかけて実践をしたように,まあさんと舩冨さんを中心にして,長い時間をかけてじゃまじゃまサッカーをつくり出したように。

 

しかし,菅さんのナラティヴが変化するためには,子どものサッカーに対するナラティヴが変化することもまた必要なのだ。

その変化は,休み時間のサッカーに対して,授業のサッカーが勝るときに起こることはおそらく間違いなのだろうが,未だ実現していないので,それはわからない。

 

どうも前回に続いて辛口の批評になってしまいました。

でも,「じゃまじゃまサッカー」や「お祭りフットボール」の可能性をもっと広げるための注文です。

ご検討を!

 

 

 

 

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