「みんなが楽しめるフットボールをめざす『お祭りフットボール』」を読む
こんにちは。石田智巳です。
今日は,昨日に引き続き『体育科教育』2014年10月号を読みます。
この10月号は,書き忘れましたが,「サッカーの教材作り・授業作り」を特集しています。
昨日は林俊雄さんの文章でしたが,その最後の部分を書かなかったことと,その部分に関わる実践が書かれていたので,取り上げようと思いました。
これは,『たのしい体育・スポーツ』の平田論考とも関わってきます。
では,どうぞ。
林さんの文章は,サッカーの教材化には様々な視点があること,そしてその具体的な教材が紹介されていた。
それは,「すべての子どもたちにサッカーの技術を中心としてできる・わかるを保証するための教材化」の例であった(林,10頁)。
その後で,そもそも「サッカーとは何を教える教材たり得るのかという捉えなおしの視点が提起されていることを紹介」する。
宮城の制野俊弘さんの『たのしい体育・スポーツ』2012年7.8月合併号の文章を引く。
「サッカーの面白さは単にゴールを多く決めることやゲームに勝つことだけではないし,そのための技術や戦術も面白さの表現的な部分であって,じつはその背後にこそ教えるべき内容が隠されているのではないか」(制野,2012,55頁)。
林さんの文章から制野さんの文章に跳ぶが,制野さんは,これまでの体育同志会のサッカー実践を次のように総括する。
「ある特定の技術や戦術をコンビネーションプレーとして結実させ,サッカーにおける『エキス』的な部分,あるいは最も美味しい部分として子どもたちの学習の対象に据えてきた。そのことによってサッカーの最も美味しいと思われる部分を教えきろうとしてきた」(制野,54頁)。
そして,制野さんは「サッカーを『文化として総合的に教える(学ぶ)』という方向に大幅に視野を拡大すべきだ」,「これは同志会が従来から主張して生きている理論とも一致する」と云う(制野,55頁)。
単純に言えば,制野さんは,体育同志会の人なのだが,体育同志会の理論と実践を批判的に捉え直そうとするのだ。
自分の子どもたちの学びを考えると,どうしても批判せざるを得ないようだ。
そうやって,体育同志会と自分の殻を破ろうとする。
こうして,制野さんは,フットボールがサッカーやラグビーに発展してきた結果としての現在の姿だけではなく,その当初のマスフットボールやお祭りのフットボールのような混沌としたゲームの体験,そしてそこからルールを作っていく授業などを提案する。
なるほど,さすがは制野さん。
相変わらず考えることが大きい。
リレーの授業をやるとなれば,ペンシルバニアに行き,サッカー(フットボール)を授業でやることを考えると,イギリスへ行く。
走り幅跳びをやったときには,マイク・パウエルという当時の世界記録保持者と会っている。
で,菅(すが)さんの「みんなが楽しめるフットボールをめざす『お祭りフットボール』」だ。
実践の背景には,みんながゴールを楽しめるようにじゃまじゃまサッカーをやってきたこと,それによって,休み時間にもサッカーをやる子が増えたこと,その休み時間のサッカーは,1個のボールに多数が群がり,「偶然・偶発的に起きるプレーばかり」であったこと,しかし,子どもたちはそんなサッカーでも「眼をキラキラさせながらプレーに夢中になっていた」ことがある。
「技術的にどんなに未熟でも,ゴールなどほぼできなくても,子どもは熱中・没頭できる」のであり,そのため,じゃまじゃまサッカーではなく,お祭りフットボールを授業で取り上げる意味があると考えたわけである。
そして4年生の実践。
「お祭り」ときいて「ウキウキ,ワクワク」する子どもたち。
「みんなが参加できて,楽しめるお祭りのような,フットボールを4年2組で創っていこう」という提案する。
しかし,現実にはもめ事が絶えない。
それでも,実践を終えて,「全力を出せたことに嬉しさや達成感を感じている子どもがいる」,「みんなと心からお祭りを楽しんだことが心に残ったのであろう」と述べる。
この授業は,制野さんの提案に学んで展開したようだ。
なるほどと思う反面,違和感がないわけでもない。
その違和感は何だろうかと考えてみた。
じゃまじゃまサッカーで,サッカーを好きになった子どもたちが,休み時間にサッカーをやるようになる。
昔の言葉で言えば,正課時にやった中身を,生活(休み時間)に生かそうとする,まさに生活体育。
しかし,生活の側では,未熟なサッカーが展開されている。
それでも子どもたちは楽しそうだ。
子どもたちが楽しんでいるのは,未分化な運動文化としてのお祭りのフットボールのようなもの。
だから,授業でもそれをやるというストーリー。
じゃまじゃまサッカーは,近代スポーツのサッカーにつなげるためのもの。
お祭りフットボールは,近代以前の運動文化で,みんなが楽しむためにあるという。
スポーツは本来,やりたい人が集まってやるものだ。
やりたくなければやらなくていい。
だから,休み時間にやっていた子どもたちは,やりたい子どもたち。
そしてその姿を見て,「未熟でも」「熱中・没頭できると知った」とある。
そして,だから授業で取り上げるという。
でも,やりたくない子や嫌いな子(女子6人,男子1人)もいる。
その子たちがお祭りフットボールを,強制参加である授業でやる必然性があるのかという疑問が違和感として残ってしまう。
だったら,今のサッカーの形式,あるいはじゃまじゃまサッカーという形式で,みんなが楽しめるにはどうしたらいいのか?と子どもたちに問うのでもよかったのではないかとも思うのだ。
というよりも,ここには,「近代スポーツVS近代以前の運動文化」という二項対立が透けてみえてしまう。
菅さんが「近代スポーツがもつ勝利至上の考え方を乗り越えるポイントがあるのではないか」(27頁)という云い方に現れている。
これは,制野さんが近代スポーツは「危険物」だと云うのとも似ている。
というか,おそらくそのことも制野さんに学んだのだろう。
そして,その背後には,近代スポーツを批判した中村敏雄さんの思想がある。
「今日の学校体育の中で教材として取り上げている各種のスポーツ,および,そのリードアップ・ゲームは,自由主義思想を内蔵していて,これを教材として指導する限り能力主義的人間形成が進行することになり,民主的人間形成とか,連帯感を持つ人間とかを生み出すことは不可能であるということである」(中村敏雄「運動文化の追求・獲得とその創造・発展について」『教育評論』177号,1965年10月,p.73)。
そもそも授業は多様な子どもがいるし,やりたくない子どももいる。
だから,平等にできるような教材づくりなどの工夫は必要だと思う。
そういう意味で,じゃまじゃまサッカーをやったから好きになった子が増えたのではないか。
だとすれば,「じゃまじゃまサッカーを発展させることで,いかに今のサッカーにより近づけることができるのか」という問い方もできると思う。
子どもたちを,近代スポーツから引き離そうとするのではなく。
体育同志会では,スポーツをどう見るのかは意見が分かれるところである。
まさに,『たのしい体育・スポーツ』10月号で,平田さんが展開している内容である。
やはり中村さんは独特な考え方をしているとも云える。
それでも,菅さんのようにチャレンジングな実践も魅力的だと思う。
なぜならば,僕も授業でじゃまじゃまサッカーをやった後,普通のサッカーをやったら,学生たちは男女入り乱れて,喜んでやった経験があるからだ。
こちらが「すべての子どもに」とやや押しつけがましく云わなくても,学生たちはそれなりに自分たちで工夫してやっているのだ。
スポーツは,それをやることで心身の解放が得られればよいと思うときがある。
たとえ,上手くできなくても。
その場でみんなで群れているだけでも楽しいし,「頭使え」とか云われるとフリーズするという気持ちもわかるのだ。
でも,それは評価・評定のある授業でやることではないだろうという思いも持つ。
というアンビバレントなものなのだ。