体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

大阪で健康教育の実践を読む会に参加しました1

こんにちは。石田智巳です。

 

8月19日は、大阪の八尾で「どこでもドアⅢ」という健康教育実践の記録集を読む会が催されて、行ってきました。

僕は、その日は25日に行われる学生のキャンプの会議に出なければならないので、午前中だけの参加となりました。

大津紀子さんの実践報告を受けて考えたことです。

その前に、この「どこでもドア」を読んで考え方ことを書くことになりそうです。

では、どうぞ。

 

この日は朝の10時に近鉄八尾駅だったので、あらかじめ路線を調べてみると、大和西大寺から布施または鶴橋に行って、そこから乗り換えて近鉄八尾駅に着くというルートが示された。

少し早めに行って、コーヒーを飲みながら「どこでもドアⅢ」を読もうと思ったが、電車が空いていたので、電車でも読むことができた。

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大津さんの実践記録はすでに読んでいたので、後ろの方の斎藤治俊さんの書かれた「『対話の授業』が意図し、目指していること」を読んだ。

これは2010年の大会の提案集に載った文章だそうだ。

健康教育分科会の歴史をおさえてあり、よくできていると思う。

中村ひとみさん(懐かしい名前だ)の「子どもとともにつくる授業」の提案があり、その発展として榊原義夫さんから2002年に提案されたのが、地域に開かれた「対話の授業」だ。

 

それ以来、健康教育分科会あるいは大阪のプロジェクトではこの「対話の授業」を主張している。

しかし、この対話の授業が理解されていない実情もある。

榊原さんの提案では、父母のみならず地域の大人を巻き込んで構想されるとしている。

これが一つの側面。

もう一つは、具体的な授業場面では、系統的な指導よりも、子どもたちの感想や意見で深めたい中身が出てきたらその都度、軌道を修正しながら進めていくという側面。

 

しかし、これがなかなか理解が得られないというのは、冬大会で上野山さんに報告していただいても、違和感の表明がなされたりするのだ。

でも、これが理解されないのは、僕にはなんとなくわかる気がする。

 

それは、実践記録を書くことを考えてみればわかる。

実践記録は、自分で書いてみて、それを報告してサークルで検討し、書き直していくものである。

最初に書くとき、そして書き直すときには、その支部の先輩の実践記録に学ぶとか、その先輩からアドバイスを受けて、書き方そのものを学ぶことになる。

ところが、書き方にマニュアルはない。

 

マニュアルはないけど、ある型が伝承されていっているのだ。

もっと子どもの様子を書くこと、どうしてこの教材なのか、どういうデータを集めたのか、それをどう分析したのかなどである。

これは、網羅的になされるというよりは、その集団に共有されている「型」にしたがって、それぞれ違うと思う。

 

だから、実践記録の書き方をその集団が指導するということは、実践の作り方、見方、総括の仕方、実践の価値、実践の課題などが同時に指導されていっているのだ。

だとすれば、その集団と別の集団では、重きを置く点が違うということであり、そのことがお互いの実践の理解を難しくしているのだと思う。

単純に言えば、自分の物語の形と違うからよくわからないのだ。

水戸黄門のような話を期待して村上春樹を読んだら、まったく訳わからないと思うだろう。

 

エスノメソドロジーでは、「自分たちが当たり前のように考えたりふるまったりしていること」を「カテゴリー化」という言い方で表したりする。

当たり前すぎて普段は意識に上らないことだが、もし違う考え方やふるまい方に出会うと、「アレ?」となる。

しかし、ガーフィンケルエスノメソドロジーが、もともと秩序の研究からスタートしたことを考えるならば、その「アレ?」は自分と違うのは「そちらの考え方やふるまい方が変だから」ということで、自分の秩序を維持しようとする(のだと思う)。

 

今日も話に出てきたが、大津さんの素晴らしい「体育」実践が報告されても、それにケチをつける人たち(官製研の人たち)ははじめから大津さんの実践の価値を認めようとしない人たちである。

前にも書いたが、国会での質疑などは、与党は何言われても数でおすつもりでいて、野党は言っていることのおかしさを攻めて、認めないことが目的となっている。

だから、対話の可能性はない。

中身が問題ではなく、言っていることに反対するのが目的だから。

 

この例は極端だとしても、要するに自分たちと実践の構想とまとめの仕方が違うと、どうもよくわからない、知りたい部分を語ってくれないというような反応になるのだと思う。

なお、斎藤さんは最後に、「『対話の授業』のスタンダード化」を提案している。

この気持ちは痛いほどわかるが、常に優れた実践から学ぶというスタンスを守ってほしいところだ。

 

それと、先から述べていることに戻るが、考え方や実践の構想の仕方に違いがある、そしてその違いがあるから体育同志会の実践的豊かさが担保されているわけで、その構造的な違いを見えるようにするのが、僕らの仕事なのだろう。

 

かつての教授学構想のように、すぐれた授業の一般化は大切なことだと思う。

しかし、エッセンスだけを取り出して、こうやって授業を作れとなると、より大切な実践者の個性的な部分が見えなくなるような気がする。

いい実践をするために、実践的な力量をつけるためのよい方法を構想してほしい(していきたい)と思う。

 

続いて、前田雅章さんが書かれた文章を読んだ。

ヴィゴツキーに学びながら、大津さんのエイズの実践を分析した文章だった。

これはなかなかいいと直感はしたが、やや電車で読むには難しい内容だった。

しかし、大津さんの実践報告の後に、前田さんがうまいこと解説してくれてよくわかった。

やはり、本人が当たり前のようにやっていること、血肉化されていることは、本人は気づかずに語らないということなのだろう。

この前田さんの発言はとてもよかった。

 

いつものように、外側の話で終わってしまいました。

大津さんの実践については、また明日書きます。

 

 

 

 

 

 

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