大阪で健康教育の実践を読む会に参加しました2
こんにちは、石田智巳です。
今日は大津紀子さんの実践の報告です。
誰がなんといっても、今日書きます。
では、どうぞ。
会場のプリズムホールに着くと、大津さんはすでに来ておられた。
簡単な挨拶をして、僕はすでに来られていた愛知の堤吉郎さんと少し話をした。
本当は、大津さんともいろいろ話をしたかったが、本人も報告の準備があるし、いつでも話はできるからいいと思ったのだ。
遠い参加者は早くにつき、近い参加者は遅くに来るという何とかの法則のようだ。
それでも20名ほどが集まってきた。
大津さんの報告が始まった。
「性問題と困難な人間関係に揺れる6年生の子たちー人間の愛をテーマにしてやりぬいたエイズ実践」というエイズを題材とした実践だった。
実はこの実践がいわくつきの実践だったのだ。
前にもこのブログで報告したのだが、大津さんはこの実践記録を書ききることができなかった。
僕が上野山さんの実践記録を読んで、さらに、メッセージとして「執筆には苦労はつきものだが書くことで自分を客観的に見つめ、積極面を見つけられるいい機会になると思う」と書かれたのを読んで、これに反応した。
そして、「実践記録は、実践記録は自分が前を向いて生きるために書くのだ。
自分がこれなら生きていけるという枠組みを自分で用意するのだ。
だから,成功したという積極面を強調した記録でよいのだ」と書いた。
なんだかんだとあって、その後、大津さんはこのエイズの実践記録を書ききったという。
そして、書ききることで、本人のご病気もよくなってきているとのことだった。
さて、その実践である。
実践記録は子どもたちの様子が語られる。
もちろん、なんでもない日常とかではなく、子供の抱えるまさに「生きづらさ」であり、「生活課題」であり、「問題」である。
ここはただこういう子どもたちがいると語られるのではなく、この子たちの課題あるいはこの子たちの必要は何かが分析されるのだ。
大津さんは、性に興味を持つ子どもたち、いじめに苦しむ子どもなどから、教材としてエイズを持ってくるというよりも、この子どもたちを「性問題と困難な人間関係に揺れる」思春期の子どもと分析して、性の問題、人間が生きるということをテーマ(教科内容)にして、エイズを教材に取り上げたのだ。
この、子どもー教科内容ー教材という流れが見事にはまる。
ここで教材というのは、大きな教材としてエイズがあり、下位の小さな教材という仕掛けが用意されている。
その仕掛けもまたいい。
1時間目は、世界のエイズの状況が語られる。
特に、ボツワナとタイの状況から、薬が手に入る国と、入りにくい国があることを学ぶ。
ここで子どもたちの感想には、「日本の状況が知りたい」と書かれる。
これが対話の授業の一つの姿なのだろうが、そこから保健の教科書を使ってエイズについての学習が2時間目に行われた。
次の時間は、再び外国で、二人のエイズにかかった子どもの写真を見せる。
一人は、南アフリカの「死を待つ子ども」、もう一人はブラジルで治療を受けられる「生き延びるこども」である。
なぜ国によって、治療が受けられたり、受けられなかったりするのかを学ぶなかで、生存権と特許権の問題であることに気づいていく。
命か、金か、だ。
そして、再び日本に戻ってきて、日本の薬害エイズの被害者がなぜ匿名で裁判を闘うのかという問題に。
そして、この原告の中に血液製剤によって血友病からエイズになったけど結婚した夫婦の手紙を読んで、「自分たちが好きになった人がエイズだったらどうするか」という当事者性のある質問で子どもに迫っていく。
さらに、それを親との鉛筆対談によって、深めさせていく。
保護者は、全員が子どもの結婚には反対だった。
真剣に考えて、揺らぐ親もいた。
ここが授業の一つの山場であった。
さらに次の時間には、エイズにかかった人たちをサポートする活動を行っているLAPというグループが紹介される。
そのなかで、子どもたちは、「HIVはいかに生きるべきかという問いを投げかける」、「生をどのように味わうことができたか」という文章に出会う。
悲惨な現状を告発するだけではなく、希望の持てる下位教材を用意しておくことで、子どもたちの性、そして人間関係に揺さぶりをかけていく。
子どももそれにこたえるように学習していく。
大津さんは、子どもたちは今までにない世界観を学んだと述べている。
体育同志会の関係者であれば、みのお大会の提案集に載っている原発の実践(「どこでもドアⅢ)にも所収)を読んでみてほしい。
これは、The 実践、という感じ。
ついでに、このエイズの実践を読んでみてほしい。
僕は、原発の実践はすごい実践だと思ったが、このエイズの実践はまだ描き切れていないのではないかと思ったりする。
実践が子どもの感想文で終わりとなっているのだ。
もしかしたら、ここら辺に大津さんが実践記録が書けなかった理由があるのかもしれない。
ここを訊いてみたかったが、時間もなかったので、またメールをするということで僕は会場から引き上げた。
実践記録は、二人の私が登場する。
書いている私と、書かれている私だ。
状況がしんどい場合は、この二人の私の時間的な距離が近いと書けない。
つらい思い出も、時間がたつとあれはあれでいい思い出となるように、時間がたってみれば書けるようになるのだ。
当然、つらい感情は薄まってくる。
このときに、登場人物である自分のやってきたことがよかったんだという積極面が見いだせればそれでよい。
うまくいかないことは仕方がないし、それも含めて次に生かせばいいからだ。
「こうしてみようとか、こうしてみたい」と思えればいい。
まさに自分が前向きに生きていけることが必要なのだ。
さて、大津さんの原発の実践と、上野山さんの飢餓問題の実践(『たのスポ』2006年11月号)は同じような構造をしている。
これは、一緒に学びあってきたから構想の仕方、実践の見方や考え方が似てくるのだろう。
学校がしんどかったという面も似ているのだが、それよりも、両方の実践とも、子どもたちを輝かせようとしているところが似ているのだ。
上野山さんは、普段の勉強で輝けない子が健康教育では、すごい力を発揮するとよく言われる。
もちろん結果としてはそうなのだろうが、これは上野山さんの仕掛けのような気がしてならない。
つまり、どの子も輝けるときがあるし、その輝きを親にも伝えてあげることで、その子を見る周りの目が変わり、自分に自信を持たせるようにしているのだと思う。
これは、まさにナラティヴ・プラクシスである。
自分で口にすることのできない言葉を、周りがそして自分が口にできるようになるという意味で。
この子どもを輝かせることに関していえば、原発の実践も飢餓の実践も、学習の最後に「今、自分たちでできることは?」というさらに当事者性に訴える活動が用意されている。
エイズという教材ではその活動を用意することが難しかったのだろうか。
ここに食い足りなさのようなものを感じてしまった。
さて、それを抜きにしても、うまい構成だといえる。
さらに、昨日も少しだけ紹介した前田さんの大津実践の分析がとてもよかった。
性を教えるということの必要性と、その目的が「愛を教えること」だと述べたのが、ヴィゴツキーだった。
前田さんは、大津さんがそこをきちんと押さえたうえで、テーマ設定をして、教材としてエイズを持ってきたということを語ってくれた。
他にも大津さんのすごい点、ヴィゴツキーの現代的な意義を語ってくれたが、僕の方が消化できていないので、また読んでみます。