体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

昔話「末吉小学校」を読む

 こんにちは。石田智巳です。

 

以前,このブログで菊池浄「末吉小学校を思う」を読む を書きました。

その後,菊池浄先生から連絡があり,「末吉小学校を思う」を書き直した「昔話『末吉小学校』」を送っていただきました。

今日は,この文章を読んで思ったことを綴ってみることにします。

ややかぶることがあるかと思いますが,そこら辺はご勘弁を。

では,どうぞ。


写真は、滋賀の風車村の風車。

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菊池さんは今82才だそうだ。

これを書き始めた今日は,戦後70年の始まる日。

だから,戦争が終わったときに今でいう中学校,昔でいう国民学校の高等科にいっていたと云うことになるのだろうか。

このあたりはあんまりよくわからないのだが。

 

読めば,菊池さんは30才ぐらいで,末吉小学校に赴任したことになる。

そのときに,根本忠紀さんという教頭先生と一緒に赴任したそうだ。

最初は,学校が終わると麻雀をして遊んでいた。

しかし,やや変わった「永田さん」という人と出会い,勉強するきっかけを得たという。

 

「根本教頭があいつは生意気だ。やっつける会を開こう。ところが我々の方が永田君にやっつけられてしまいました。そして全国の教育運動の数々を教えてもらいました。今思うと,根本先生は負けは計算済み。転機を図っていたのかもしれません」(2頁)。

 

こういう書き方がとてもいいと思う。

おそらくもっとゴチャゴチャいろいろあったと思うのだが,「転機を図っていた」ことに焦点を当ててすっきりと書かれている。

そして,「麻雀やめて勉強しよう」という提案が根本先生から出てくる。

じゃあ,どんな勉強を?

「体育がいい。知り合いがいる」ということで,それが丹下保夫さんだった。

菊池さんにとっては,同志会や民研の人々との出会いとなった。

 

これもまた面白いのだが,丹下さんのお兄さんが,八丈島で漁船が使う氷を作る会社の社長さんだったということだった。

それで,丹下さんも八丈島に来られて,そこではじめて話を聞く。

「鉄棒だったか中間項理論について述べられたと思います。ほとんど分かりませんでした。学校体育研究同志会との出会いです」。

 

僕も体育同志会にはじめて参加したときには,「ほとんど分かりません」状態だった。

これは,理解ができないとか,難しいとかよりも,「使う言葉が違っていてわからない」ということなのだと思う。

以前,2012年の冬の全国委員会に次のような文章を書いたことがある。

「我々は同志会の理念に賛同したから実践するというよりは,同志会の関係者と一緒に実践をすることで,実践が同志会的になってきて,使う言葉も同志会的になっていく」。

だから,体育同志会の人が普通に使っている言葉(符丁,ジャーゴン)が,しばしば排他的に響く可能性もあるので,注意が必要なのだ(と,今自分に言い聞かせています)。

 

さてさて,学校が旅費を出し,校長と教員の旅費の差をなくせば,全職員が都内1回,他府県1回の旅費が捻出できたため,夏休みなどはあちこちの研究会に参加したという。

菊池さんは,教科研国語部会,教授学部会,歴史教育研究会,そして体育同志会に参加したという。

今の若い小学校の先生たちもまた,いろいろな研究会に出かけていっているが,そういうものだったのだろう。

 

体育同志会の大会には,なるべく授業記録をもっていったという。

「私のやったことにいろいろな意見が聞けるし,いろいろな材料にしてもらえるからです。指摘されればそのことに注意して次の授業を組み立てるという風に,私の授業が良くなれば儲けものという感じでした。」

そして,「帰ってくると,学校でも組合でも,報告会を開き,学んできたことを伝え合うのでした」。

 

先日,兵庫支部ニュースが届いて,9月の支部総会は,みのお大会の報告会となっていた。

考えてみれば,各個人はそれぞれの分科会に出るのだから,よその分科会のことは分からないわけで,報告会などで何を学んだのかを報告し合うことは大切だ。

いつも書くのだが,事実の報告もだが,思ったことや感じたことの報告会にしてほしいと思う。

 

ここからがすごいところで,これは,『たのしい体育・スポーツ』7.8月合併号に堀江さんが詳しく書いていることでもある。

「末吉小学校では,人はどういう風に物事を分かっていくのかという議論がありました。結論はありませんでしたが,ともかく本を読みました。それも原子物理学の本や生物の歴史の本などでした。特に見えないものを見えるように話を進める原子論などよく話しあいました」(3頁)。

 

教育で子どもの認識というか発達段階とわかり方が主題化されるのは,1958年の教育科学研究会での勝田守一の提案以降だと僕は勝手に思っている。

そして,その頃,ソヴィエト教育学の認識論(感性的-悟性的-理性的認識)が出てきたりもしたが,やはりピアジェの理論の紹介が60年代になされたのが大きいと思う。

ピアジェの認識論は,今では個人的な構成主義に区分されるが,「遺伝か,環境か」とか,「観念か,実在か」という二項対立的な問いを「発生」という観点からとらえ直したところに特徴がある。

 

今でこそ,「9~10才の壁」とか普通にいったりするが,人間は環境との相互作用によって,認識のスキーマ=シェマ=図式が質的に変化していくことをピアジェは述べている。

よく感覚運動期とか,前操作的段階,操作的段階だとか,論理的思考だとかいわれるあれね。

批判も多いけど,やっぱりすごいね。

 

そして,ピアジェを知らなかったにしても,末吉小学校では,それを明らかにしようとしたそのことがすごい。

続きはまた書きます。

 

 

 

 

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