「『握手』からスポーツマンシップ教育を考える」を読む
こんにちは。石田智巳です。
最近,やたらと忙しくなっているので,あんまりゆっくり本を読むことができません。
本は読めませんが,ニュースは読めます。
今日は,体育同志会兵庫支部ニュース11月号の「スポーツマンシップ教育を考える」を読んで話が展開できそうだから書いてみました。
では,どうぞ。
火曜日は,朝,院生の授業をやって,会議のハシゴ。
このハシゴは一軒目「どういうことだ!」,二軒目「何寝ぼけとる!」と叱られにいく。
そして,昼休みから会議は始まった。
人事,教学委員会,教授会,専攻会議。
終わったのが19時で,そこからメールをチェックして返事をさくさく書いていく。
しかし,あまり変えるのが遅くなってもいけないので,8時過ぎに大学を出て電車で帰る。
写真は,近鉄京都駅を入ったところにあるお店。
体育教師はすぐに反応してしまう。
家に帰った後は,少し仕事をするが,基本お風呂に入ったら仕事はしない。
水曜日の朝は6時に起きて,きゅうちゃんの散歩。
そして,たまった仕事を片付けて,ようやく自分の仕事へ。
それが一段落ついて,この兵庫支部ニュースを読んだ。
書いたのは中西匠さん。
大学院の先輩に当たる方だ。
中西さんは,大阪で開催された世界スーパージュニアテニス選手権大会を観戦して,あることが印象的だったという。
この大会では,男子は日本の綿貫陽介選手が,女子はロシアの選手が優勝した。
印象的だったのは,試合終了後に勝者は,「試合が決まってひとしきりガッツポーズをした後,帽子を取りながらネットに駆け寄り,ちゃんと相手の目を見ながら笑顔で握手を交わし,そのあとさらにハグ」。
敗れた選手は,「背中と頭をぽんぽんと叩いてお祝いをしている」。
「勝者は敗者に対するリスペクトを忘れず,敗者は敗者を受け入れて勝者を称える。スポーツマンシップのわかりやすい姿が表現されていて,見ていてとても気持ちいいシーンでした」。
なるほど,確かに気持ちよさそうだ。
テニスではそうなのだろうね。
でも,それは別のスポーツと比較するからよけいに気持ちいいと感じるのだろう。
その別のスポーツが,同じネット型の卓球だという。
あらかじめ言っておくと,中西さんは卓球が嫌いだとか,ある選手が好かんとか言っているわけではない。
なるほど,リオオリンピックの女子の団体を見ていても,「握手の瞬間にはほとんど笑顔はありません。相手の顔を見ていないことも多く,握手もほんの一瞬触るだけ。そのあと,テーブルの後ろに陣取っているコーチやチームメイトとの握手やハグとは対照的で,よけいに対戦相手との握手の素っ気なさが目立ちます」。
でも,「卓球の選手にはスポーツマンシップがない,といってるわけではもちろんありません」。
そりゃそうだ。
だとすれば,そういう文化として競技の中味と同時に身につけてきたということになる。
「それは文化の違いだ」で片付けてしまってはいけないのだ。
「運動文化の継承と発展」あるいはその担い手を育てることを標榜している私たちは,この問題を避けて通ることができないのだから。
「トップレベルをめざすジュニアの指導者たちは,ジュニア選手たちにスポーツマンシップとその表現方法をきちんと教えなければならないと思います」。
そして,「教師は,これらのスター選手たちの所作を手掛かりに子どもたちにもスポーツマンシップの意義と表現を,体育授業の中できちんと教えなければならないと思います」。
「どなたか,体育理論で『握手とスポーツマンシップ』の授業をしませんか?」と結ばれる。
言いたいことがとてもよくわかる文章だった。
以前,和歌山の植田真帆に,小学校三年生の柔道の映像を送ってもらったが,全く大人の柔道を子どもがしていた。
組み手争いとふてぶてしいほどの貫禄。
フランスの子どもの映像も有り,それとの対比で見るとまるで違う。
そうやって,文化の伝承がなされていくのだろう。
それは,体罰を受けた学生が体罰を容認したり,自分も使うかもしれないと思っている割合が有意に高いという調査も同じだ。
文化伝承は,身体の隅々に行き渡る。
パバロッティは悲しみを音吐朗々と唄い,ディースカウは喜びを静かに歌い上げた。
イタリアとドイツの違いを典型的に表している。
僕は小学校英語と聞くと,どうしてもEテレの「英語で遊ぼ」のように,「ワーオ」と言いながら陽気に進行するアメリカ人を思い浮かべてしまう。
みんながみんな陽気ではないのに。
みんながみんな野球がうまいわけでも,ダンクできるわけでもないのだが。
文化の問題は,言語の問題でもある。
僕も娘のマラソン大会で,走ってくる子たちに「頑張れ!頑張れ!」と応援したが,「頑張れ」といわないで応援しないといけないなと思いつつも,言語体系に幽閉されている自分に気づくのだ。
これも文化。
だから,世界中の人が同じように決められたことをする必要はないけど,日本人だったらそこに日本人らしさを垣間見ることができるといいなあと思ったりもする。
同じ思いを違う所作で表現するということはあるだろうから。
となると,すぐにお辞儀を思い浮かべるけどね。
さて,この握手もそうだけど,やはり「負けを教える」ことも大切だ。
内田樹さんは,『昭和のエートス』の中のある文章で,4000校ある高校野球チームで最後に勝つのは1校だから,甲子園に教育効果を求めるとすれば,負けを教えることだと言っていた。
また,杉本厚男さんも,ある著作の中で,やはりゴルフのフィル・ミケルソン選手が負けたときのインタビューを賞賛して,「負けることを教える」ことの重要性を指摘していた。
だから,中西さんがいうのと同じ意味で,気持ちいい敗者の振る舞いや言動を研究するのもありだろう。
おっとっと。
敗者の弁を研究して,その語りの構造を描き出すという研究は面白いかもしれない。
うちの院生が,K-1選手は,どの国の選手でも試合前は相手を挑発する文化を身につけているのに,日本人選手は負けたときは途端に日本人文化が出てくるというようなことを言っていた。
こんなことが書きたかったわけではないけど,こんなことを書いたということは,こんなことを考えたということなのだろう。
落としどころがぼんやりしていて,ブログ的な思考になっていないということだ。
ランニングと同じで,その道は険しいようです。