『生きるとは,自分の物語を作ること』を読む
こんにちは。石田智巳です。
今日は,読書の記録です。
タイトルに書いた本と,たまたま毎日新聞ニュースで届いた,村上春樹さんの「文学について語る」がシンクロしたので,そのことを書こうと思うのですが,おそらくその企てには失敗すると思います。
というもの,1冊の本を全部読んで,そこに書かれていることからこちらのアンテナに引っかかったもので話を展開しようとするだけで,3日はかかるだろうから。
だから,おそらく少しだけ摘み食いするような形になると思います。
では,どうぞ。
4月29日水曜日の朝は,5時頃に目が覚めたので,アマゾンで注文して置いた本を手に取る。
欲しい本があると,どんどん買うので,時間差でいろんな本が届く。
アマゾンとかで,本を注文すると,今は「こちらの商品はいかがですか?」なんて,関連する本が出てくるので,それで買うこともある。
先日,「荒野の七人」をDVDで見たら,偶然だろうが,アマゾンからのメールで,「おすすめのDVD」のリストが届いて,その中に「荒野の七人」もあった。
「荒野の七人」の話を展開すると,後々困ったことになるので,とりあえず「七人の侍」そのものだという程度にとどめよう。
さて,いくつか届いた本の中から,小川洋子,河合隼雄『生きるとは,自分の物語をつくること』(新潮文庫,2011)を読み始めた。
タイトルがいいでしょ。
河合隼雄というぐらいだから,ナラティヴ・ケアの話だと直観して,買うことにしたのだと思う。
この本は,二つの対談と,小川さんによる「長いあとがき」からなる。
「長いあとがき」は,2つ目の対談の後に,次の対談でする話が決まって,この対談が終わった後に河合さんが亡くなったので,それを含めて小川さんがいろいろな思いを吐露されている。
最初の対談は,「魂のあるところ」というタイトルである。
「博士が愛した数式」をめぐって対談形式で話が進んだ。
この映画は見たいと思っていたが,見ていない(その後,見ました)。
対談を読んでいくと,とりあえず,河合さんは冗談が好きだということがわかる。
バルトのテクスト論とかでは,筆者が何を考えていたのかよりも,読み手がテクスト(書かれたもの,物語)をどう読むのかの方が重要になる。
バルトは出てこないが,そんなことが書かれている。
つまり,書いた小川さんの意図を越えたところで,河合さんが意味を見いだすのだ。
たとえば,「数式」の映画の中には,ルート君という子どもがいて,博士と仲がよい。
映画の最後には,博士のお姉さんが今まで閉まっていた木戸を開けて,「この道は開いておりますから」っていう。
それを見た河合さんは,「ルートが開いた」と,√とrouteの二つをかけてあると指摘した。
それに対して,小川さんも「作者自身も後からわかることがある」と応じる。
あるいは,小説を書くときも,書いている自分が全部を操れるはずなんだけど,手に負えないことが起こってくるという。
これは,村上春樹さんも同じことをいっていた。
いかに,登場人物が動けるようにしてやるのか,自分でコントロールしようとしないというか。
これに対して,河合さんは,ピッチャーを例にとって言う。
プロとかは,自分がうまく投げたとはいわずに,「球が走った」とか,「球に切れがあった」という。
予想以上のことが起こるということであって,だから面白いだろう。
自分の予想がはずれるということは,修行が足りないと思うのが一般的なのだろうが,もしかしたら,自分の可能性を越えたという意味で良い方向にとらえるのがいいのかもしれない。
いつも,予想がはずれていてもいけないけどね。
というか,自分の変化とか可能性を越えるとかは,こういう語りの中からしか出てこないと思う。
だじゃれの話も面白いのだが,これを書いていると文章にまとまりがなくなる。
箱庭療法の話もあったけど,ひとまず,最初の話はこれで終わり。
次の話が,「生きるとは,自分の物語をつくること」である。
この最初に,小川さんが書く文章がいい。
「人は,生きていく上で難しい現実をどうやって受け入れていくかということに直面したときに,それをありのままの形では到底受け入れがたいので,自分の心の形に合うように,その人なりに現実を物語化して記憶にしていくという作業を,必ずやっていると思うんです」(47頁)。
河合さんも,「来られた人(患者)が自分の物語を発見し,自分の物語を生きていけるような『場』を提供している,という気持ちがものすごく強いです」と応じる。
物語の作り手である小川さんと,物語作りの手助けをする専門家としての河合さんの対談。
だから,最初に書いたように,物語に秘めた意味を河合さんは読み取ることができるのだろう。
でも,それは二人のエクスパートだけでなく,前にも書いたことだが,教育に携わる人は誰もが物語の作り手であり,物語作りの手助けをするのだ。
それは,実践記録を書くことで,自分の教師として生きていく物語を作ることである。
それと,子どもが前向きに生きていくために,必要な物語を子ども自身が作れるように手助けすることだ。
実践記録には,教師の信念が書かれるけど,その信念には子どもの見方も入る。
子どもが前向きな物語を作れるようにすることは,実はとても難しいことだと思う。
河合さんは,「僕は何もしない」とよく言うが,「何もしない」というそのさじ加減がやはり難しいようだ。
たとえば,中高生で,カウンセリングを受けに来ても,何も言わない場合がある。
彼らは,いいたいことを言うための言葉を持っていない。
この辺りの言い方は,竹内常一さんの言い方,「何にこそ喜び,何にこそ憎しみ・・・」という指導がされないまま,ただ書けと言われた結果,学年が上がるにつれて書かなくなるというのと似ている。
で,河合さんは,何も言わないときに,いろいろ語りかけるけど,返事がなければ,それはそれでいいそうだ。
1時間も黙っていられれば,それはすごいことだそうだ。
大切なのは,心がそこにあることで,そうであれば,黙っていたっていい。
ただ,僕がそんな立場にいたら,やはり黙ってはおられないだろう。
なんか,適当にこちらの望む話をしようとするだろうし,こちらの望む物語に彼を引き寄せてようとするだろう。
それでも乗ってこないとなると,こっちの心がそこにとどまることができなくなって,「頑張れよ」とかなんとかいって,つまり彼を置き去りにして,勝手に納得するのだろう。
河合さんは,カウンセリングで大切なのは,「話を聞いて,望みを失わないこと」だという。
不登校の子が「学校に行く」と言っても,結局行けないことは多く,それが何度も続いたりする。
そのときに,「次はいけるよ」と答えたら,「彼の行けなかった悲しみをうけとめていないことになる」。
ごまかそうとしているというわけだ。
「そうか」といって,一緒に苦しんでいるけど,望みを失っていない,「ピッタリ傍におれたら,もう完璧なんです」。
でも,それが難しいのだそうだ。
この後,西洋と東洋のものの考え方の違い,物語(神話)の違い等も語られる。
こういった辺りの見方が,さすが河合隼雄さんだと思う。
深層心理学だから,人の立てて語る表層の物語のさらに深層にある物語を読むためには,文化の違いに目を向けるのだ。
西洋の合理主義(デカルト以来の哲学でも良い)と,日本の曖昧さとの違いなどであるが,そろそろ紙幅が尽きてきた。
この本を読んで,よくわかる部分もあったけど,やはり実行するのは難しいようだ。
どうしても,僕もしゃべってしまうだろう。
一緒に受け止めて,でも望みを失っていない。
傍にいる。
やはり,1冊の本を読んでいこうとしたら無理がありました。
こういう日もあるということです。
気を取り直して,また書きたいことを書きます。