体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

『街場の読書論』(内田樹)を読んで 「ブログのススメ」

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,土曜日に東京行きの新幹線で読んだ本『街場の読書論』(内田樹著)から面白い話を読んで,頭が回転したので,そのことを捉まえておく意味で書きます。

では,どうぞ。

 

土曜日は東京だった。

今回は泊まりだったが,先週は日帰り。

僕は毎月東京生活がもうすぐ4年になる(その前の4年は2ヶ月に一度東京生活だった)。

最初は,新宿で有名なラーメンを食べたりしてみたが,最近はいつも同じ。

なんか感動がなくなった。

でも,みんなもそんなものなのだろうか。

 

さて,この日は竹内常一さんの本と,内田樹さんの本と,河合隼雄さんと小川洋子さんの対談本をもってきた。

竹内さんの本は,全生研の実践記録の分析の本であり,河合さんと小川さんの本は,「物語」に関わる対談。

この本は一度読んだのだが,先日,見たいと思っていた『博士の愛した数式』を見ることができたので,改めてその部分の対談を中心に読もうと思ったのだ。

でも読まなかった。

 

そして,内田さんの本。

この人の書きぶりは独特である。

この本の中に高橋源一郎さんの『「悪」と戦う』/太宰治さんの『晩年』を例に取った「疾走する文体について」という話がある。

この話は,「ドライブする文体とそうでない文体とがある」という例を挙げる。

ドライブする文体というのは,僕の言い方では「頭が回転する」ということだが,もっと簡単に言えば「くる」ということだろう。

簡単すぎてわからないかもしれないが,いつのまにか読み進んでいて,一息ついてみて,気づいたら100頁も読んでいたというようなことだ。

読ませる文章ということでもある。

 

内田さんは,この本の別のところで,レヴィ=ストロースマルクスのある本を読むとやる気が出るだか,頭が回転するだかといったことを書いていた。

僕にとっての内田さんの本は,やはりそういう意味あいがあって,何となくやる気がでないときでも,とりあえず読むことで,なんか頭が回転することが多い。

何でもそうだというわけではないが,少し難しい内容を見事に捌いてくれる。

だから,ちょっと読んで,別の仕事に取り掛かる程度に読むのがいい。

 

それで,今日紹介するのは,このなかの「池谷さんの講演を聞く」という話。

何のことかわかりにくくて申し訳なしなのだが,池谷裕二さんという脳科学者の話を聞いて考えたことを書いているのだ。

僕はこの人のことは直接は知らないが,以前,やはり内田さんが,養老孟司さんや福岡伸一さんたち,いわゆる理系で生物(なまもの)を扱う人たちの知性を語っていたときに,この人の例も出ていて,そのことは覚えていた。

 

で面白いと思ったのは,まず記憶力に関する話。

スワヒリ語40単語を覚えるプログラムの話。

40語を覚えさせるのに効果的なやり方は次のうちどれでしょう。

 

①テストをして,1つでも間違いがあれば,40語全部を覚えなおしして再テスト。

その繰り返し。

②テストをして,1つでも間違いがあれば,間違った単語だけを学習して,40語全部を再テスト。その繰り返し。

③テストをして,1つでも間違いがあれば,40語全部を覚え直しして間違った単語のみを再テスト。その繰り返し。

④テストをして,1つでも間違いがあれば,間違った単語だけを学習して,間違った単語だけをテスト。その繰り返し。

 

全問正解に至るまでの時間にはこの4つで優位な差はなかった。

ふ~ん。

ところが,数週間後に再テストをしたときに,はっきりと差が出た。

①の正解率は81%で,④は36%。

努力した方がやはり身につくのだ。

 

問題は,②と③の差だ。

これはよく考えればわかると思うけど,そんなに差があるの?という結果に。

②は81%で,③は36%。

奇しくも,①と②は同じ,③と④も同じなのだ。

スワヒリ語は,「ハバレヤアスブヒ」「ンズーリ」とか,「ジャンボ」とか「アサンテ・サーナ」この4つ知っている。

普通の人が「ジャンボ」ぐらいだとしたら4倍知っていることになる。

それがどうした?

 

で,ここからの内田さんの解釈が面白い。

学習(記憶)は,脳への入力である。

テストは脳からの出力である。

この4つの結果の違いは,出力の違いであり,結果的にいえば「『いくら詰め込んでも無意味』であり,『使ったもの勝ち』ということである」(78頁)。

これはいわれてみれば当たり前かもしれない。

しかし,内田さんは,ここからこの理論を敷衍する。

 

「パフォーマンスというのは,端的に『知っている知識を使える』ということである。出力しない人間は,『知っている知識を使えない』。『使えない』なら,実践的には『ない』のと同じである」(同)。

これを,出力の少ない学者の話にもっていく。

僕は学術論文的には少ないかもしれないが,『体育科教育』の連載,『かもがわ』の連載,そして,ブログ毎日更新という出力がある。

それがどうした?

 

内田さんは,学生院生たちの読書会もやり玉に挙がる。

自転車に乗る例も挙げる。

要するに,知識を使ってみることが先で,自転車も乗ることが先。

学習会がダメなのではなく,その学習がどこに出力されるのかがないままに学習されるからダメなのだ。

数週間すれば忘れてしまうのだ。

もちろん,じっと我慢して難しい本に向かったという経験は残るだろうが,それならばその本でなくてもよいのだ。

 

だから,体育同志会の研究も,それぞれの人たちの出力に向けた入力である必要がある。

体育同志会だけではないが,若い人が研究会に参加しないという嘆きは,家庭の事情もあるだろうが,実は今の若い人の方がある意味で正直なのだろう。

わざわざ本を買いに出かけて云って欲しい本がない経験よりも,当然,amazonで翌日届く方を選ぶ。

 

行っても何やら難しい話を聞かされるのであれば,いかないよ,ということだ。

「時間がないから本を読まない」という人に対しては,「時間があっても読まないだろうね」とついいってしまう。

どうしても読みたければ,その時間はなんとかするものだから。

研究会も行って聞きたい内容になっていないということか。

 

となると,我々がやるべきことは,とにかく彼らに出力させることだろうね。

日曜日の常任委員会でも,若い人が自分の実践をどう評価していいかわからないという話が出た。

実践記録を書くということは,そう簡単なことではない。

だから,先行する実践記録を「なぞる」経験がほしい。

実践を始める前に,良質な実践記録を読んで,その形式でもいいから自分なりに書いてみるということだ。

手習いがないから書けないとも云える。

研究会では,ハウツーもやるけど,手習いを見つけること,それをなぞることもやらないといけない。

 

僕が読む本の善し悪しの判断は,いつもいうけど,内容のこともあるけど,むしろ頭が回転するかどうかが基準なのだ。

入力して,頭が回転したら,忘れないうちにブログのネタに書き留めておくのだ。

ちゃんと出力が考えられているでしょ。

出力しようと思って,さて何を書こうかとワープロに向かったって書けないものは書けない。

書くためには入力が必要であり,入力が効果的なものになるためには,出力が必要になる。

 

ブログ日記というのは,誠にいいメディアだと思う。

誰に迷惑を掛けるわけでもないのだから。

それとそのために,大量の本を必要とする。

でも,ブログを書き始めて,自分の考え方がよくわかるようになったし,知識も増えた。

 

ということで,ブログのススメでした。

 

 

 

 

 

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