体育同志会の冬大会 3日目の様子(その1)
こんにちは。石田智巳です。
今日は月曜日なのですが,ランニングの記録ではありません。
一昨日,昨日と体育同志会の冬大会の様子をお伝えしたので,今日は,最終日の様子をお伝えします。
というのには,語弊があって,冬大会で何がしたかったのかについて自分なりに考えてみたことを書きます。
なお,昨日のブログは,一昨日に下書きを書いたのですが,それを間違って公開にしてしまいました。
すぐに気がついて,下書きに戻したのですが,結局,一昨日の更新になっているようです。
では,どうぞ。
最終日は,研究局の丸山さんが中川実践(の感想文)検討グループの議論の報告を,石田が石井実践の検討グループの報告を,それぞれ30分ずつ行った。
そして,神谷くんが両実践の検討を通して見えてきたことを語ってくれた。
そして,休憩をはさんで,フロアから両実践の検討をしてみて思ったことや,意見を出してもらった。
そして,最後に,やはりフロアから来年以降の研究会の持ち方についての意見を出してもらった。
これらの中味については,また紹介したいが,最後の最後に海野勇三さんから,にこやかに,しかし,厳しい意見をいただいた。
要約すると以下の通り。
「今回のグループ学習は,教材別分科会やグループ学習分科会での議論とは違うものだった。
やり方ややったことはよかった。
ただ,3日間議論を集中的にやるのであれば,やはり成果と課題を整理するべきだ。
総括がないといけない。
少なくとも,研究局としてはこういう結論を出したいと思うがこれでよろしいでしょうか,というのがやっぱりいるのではないか。
それが報告者にたいする誠実なお礼にもなるんじゃないかと思う。
やってもいいっぱなしにして,3年後にまた楽天性で終わるのでいいのか?
来年は進化する,再来年はもっと進化する,という見通しが必要」。
それに対しては,僕は「総括は,これからやろうと思っているのだが,それでは遅くて,この場でフロアに向かっていうべきだということですね」としか答えられなかった。
というのも,何が出てくるのかの見通しがないままに始めてしまったからだ。
見通しが持てなかったというのは,間違いないのだが,それよりも何が出てくるのかが楽しみだったといった方がいいのかもしれない。
でも,その姿勢が結果として,研究局なりの結論を出すに至らなかった,あるいは,そこに禁欲的になったということでもある。
さて,今回の冬大会では,ねらいはいくつかあった。
その一つに,集団の質が高まるということは,何を持っていうのかを明らかにすることがあった。
これには,少なくとも二つのやり方が考えられる。
ひとつは,集団に関わって,「こんな記述が出てきたときに高まったと云おう」という記述の質をあらかじめ規定しておく。
かつて,いわれた友達率(友達のことが記述された数や率)のように。
そのため,変化のメルクマールとなりそうな記述を,これまでの実践からあらかじめ出して示してみることが必要になる。
ここまでは,全国研究局の作業。
それをもとに何月何日には,こういう記述がいくつも出てきた。
そして,そのときには授業においてこういうことがあった,先生からこんな働きかけがあったというものを探ろうとすることが,冬大会に参加した人たちの作業となる。
そして,結論としては,集団の質が高まる条件としては,以下のものがあげられる・・・・。
というやり方。
もう一つは,そういうことを抜きにして,子どもたちの記述を丁寧に読んでいく。
そして,特徴的な記述を羅列してみる。
そうすると,質が変わるというのは,こういうことを指すのではないかということをみんなで共有し,検討する。
そして,次に,「集団の質が高まる授業の条件の仮説」を提示する。
つまり,実践者の見方とは違う見方が出てきて,記述の質の変化を仮説的にでも取り出して,そこから,変化を生み出す要因を授業の中から探るという二段構えでやること。
つまり,僕らは,後者を狙っていたのだ(ということが今わかった)。
ここが大切なのだが,「ねらい」は後でわかるのだ。
研究論文を書くときに,目的は最後に書かれる。
それと同じだ。
この方法的な視点と,最終的に明らかにしてほしい中味,これらを提示せずに実践分析に入ったことで議論が拡散してしまった。
とりわけ,石井実践ではそれができなかったことが悔やまれる。
あれだけの実践の事実が書かれていたのに。
様々な見方が出てくるはずということで,読み方を枠づけてはいけないという思いもあった。
悔やんでみても始まらないので,集団の質について少し思うことを書きたいと思う。
中川実践の検討のところで,集団の質とグループ学習の質は違うという意見が出てきたようだ。
これの意味がややわからないところがあったが,それはそうだと思わなくもない(歯切れが悪い)。
ただ,もう一つの「質」があると思う。
それは,球技でいえば,「プレーの質」が高まるということだ。
これは,チームとしてやりたいことができるようになる,チームとしてうまくなるということだ。
だとすれば,フラッグフットボールをやった中川実践では,プレーの質を取り出すことも当然,作業課題の一つになる。
中川さんの興味関心ではないかもしれないが。
でも,それを抜きに集団の質を云々してもしょうがないような気がするのだ。
下手で,全く勝てなくて,やりたいことがプレーになって現れないけど,集団の質が高いということがあるのか。
という観点で石井実践を見てみたい。
発表会はいざ知らず,個人技の側転をグループ学習で学ぶときに,そこにはプレーの質という球技が要求するような集団的中味はない。
だとすれば,プレーの質ではなく,協同という観点からグループ学習や集団の質の高まりをとり出す必要がある。
しかし,そこに技術学習がどう絡むのかがはっきりしていない。
これをどう考えるのか。
難しいな。
というのも,じゃあ球技でプレーの質が上がれば集団の質が高いといえるのかといえば,そうでもないのだ。
高校野球の強いチームだって,いじめに近い上下関係があったりする。
だから,プレーの質は高いけど,集団の質は低いといえたりする。
チームのプレーの質が高いこととは違う何かをもって,集団の質を云々しているはずなのだ。
だから,そもそも体育同志会は,70年代に「上手くなることで集団の質が高まるのか」とか,「技能の差を超えて学習が成立するのか」という問いを発したのだ。
ここへ戻ってしまった。
石井さんは,いろいろなグループ学習の発展段階の仮説を持ち出してきたが,その仮説がどう作られたのかへの言及がない。
作った人が方法論的検討の上で,段階を分けた方法を示していないということだ。
「おそらく,そうだろう」というものでしかないのではないか。
だから,実践の事実から構築していくとか,感想文や各種のデータから帰納法的に作り出してみる必要があるのだ。
そんな機会にできなかったのが悔やまれる。
それは,やはり研究局の準備不足だ。
ただ,このことは,先にも書いたように,やってみたから見えてきたのだ。
できなかったから,ねらいがはっきりしてきたのだ。
最終日に出てきたいろいろな意見は,またの機会に書きたいと思います。
年内はもう少し冬大会のことを考えてみたいと思います。