体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

体育同志会の研究課題としての組織論

こんにちは。石田智巳です。

 

昨日(19日)は,京都で全国研究局会議が開催されました。

京都会議の場所は,東寺のすぐそばです。

東寺は,真言宗のお寺で,とても立派な五重塔があります。

 

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とても重厚で,とても好きです。

では,どうぞ。

 

久しぶりに京都で全国研究局の会議を開催した。

こんなことではいけないと思いながらも,みんなも僕も忙しくてなかなか日程を合わせることができない。

 

昨日は,8月2日のみやぎ大会の中間総会で提案する内容の確認と,それを具体的にどのような形で推進するのかについて,話し合った。

参加者は,丸山(愛知),前田(大阪),岨(兵庫),石田(京都)の4名だった。

 

昨年のあわじでの本総会において,中長期計画として次の3点を重点的な研究課題を示して,承認された。

 それは,以下の3点である。

1)「ともにうまくなること(技術性・達成)」とかかわって,子どもの思い方や感じ方,うまくなる事実を取り出す方法の探求

2)達成(教えるもの)と形成(育てるもの)の関係を問うこと

3)学校体育(教科,教科外)に閉じない,開かれた運動文化の主体者像の明確化

 

細かいことは省略する。

 

今回の中間総会では,これに加えて,4つ目の課題を提案する。

 

4)実践研究を進め、深化させていくための組織論を構築していくこと。

 

この4つめの組織論の構築とは,大きく二つの意味があると考えている。

一つは,会の中でベテランや若手が育つ仕組みをどのように作っていくのかということだ。

これまで,会では集団的な討議と相互批評を通した実践づくりを大切にし,すぐれた実践が数多く創りあげられてきた。

その背景には必ず教師のこだわりと,それを支える仲間や集団の存在がある。

これは,丸山さんからの提案であったが,研究局の誰にも異存はなかった。

 

僕は教師として成長するための筋道はいろいろあっていいと思うが,実践記録を書いて,それが集団討論の場で揉まれ,書き直していくこと,つまり他者の目線を取り込んでいくことでなされると思っている。

これは体育同志会だけの方法ではないと思う。

綴方教師たちの実践もこれであった。

このような組織作りはかつては機能していたが,今では意図的,戦略的に構築していく必要があろう。

 

このことと関わって,かつて,「実践の質的低下」が叫ばれる理由として,以下のように述べたことがある。

「私の提案は,畢竟するに,実践をするならば先行研究に当たり,先行実践者の水準との落差をリアルに感じてみて,その落差を先行者の手を借りながら埋めていこうというものである。中略。それをせずに実践を始めるから,自分の水準で這い回ってしまい,『質的低下』が指摘されるのだと思う。」

 

「問題は,実践伝承のシステムが機能していないか,システムそのものがないということである」(『たのスポ』2014年1.2月合併号,47頁)。

 

だから,このことを全国大会や集会でも取り扱っていきたいと思うのである。

 

また,もう一つの意味は,各学校において自分自身がやりたいと思う実践をやるためには,どのような方法論,あるいは組織論が必要なのかということである。

若い人が学校で実践をやりやすくするとともに,同志会実践を広めるという意味もある。

 

これについては,『たのスポ』7.8月合併号を読む5-リレー実践を読む において書いたことを再掲する。

「若い教師は,自分がやりたいことがあっても,学年の意向や学校の意向に従わなくてはいけないことが多い。しかも,その意向が子どものためではなく,教師の都合であることが多いとも聞く。

 

気合いを入れた学級通信で,子ども同士を結びつけたり,親に子どもたちの様子を報告しようと考えた若い先生がいた。

しかし,同じ学年の先輩教師からは,安いやり方にあわせられて自由に出せなかったという。

 

中略。ところで,優れた実践を多く排出してきた体育同志会の課題はここにある。

個々の実践家の実践はすぐれている。

それを支部やサークルで伝達する機能もまだ維持できている。

しかし,それを学校のカリキュラムにしたり,同僚と協力してやるところまではいっていないのではないか。」

 

リレーの実践提案者である川渕さんは,同僚のベテランである安武さんの組織する勉強会に集う先生方に助けられて,運動会でやりたいリレーをした。

愛知の堤さんも,学校づくりを意識して,勉強会を開催していた。

大阪の中川さんは,合体(学年合同で行う体育授業)をさせないために,それぞれのクラスが体育館と運動場を使用できるようにカリキュラムを組んだ。

そして,中川さんの体育授業の後は,必ず(といっていいほど)国語となっているという。

体育の感想を書かせることを重視しているからである。

 

これらは,非常に重要なことである。

こういった事例を多く学ぶ必要があろう。

 

とはいえ,難しい問題は他にもある。

 体育同志会に限らず多くの教育研究サークルは,弱体化しているといわれる。

もちろん,研究内容的には進化を続けているのだが。

 

しかし,2007年問題といわれた団塊の世代の大量退職から,今も大量に採用されていた50代がやめていっている。

そして,採用が少なかった30代後半や40代の教師に対して,20代の教師が増えているというややいびつな状況が生み出されている。

もう少しすると,サークルに大量に集った50代がいなくなる。

40代が50代になるから50代は減らない,ということではない。

その40代は少ないのに,それ以下の若い人が多い。

そのため,実践研究の伝達がうまく進んでいない。

これは,サークルだけではなく学校も同じである。

もちろん,多忙化もあるだろう。

 

45歳の僕とその下の年代の教師は確かに少ない。

さらに,僕の年代の教師は,サークル活動に集う数も少ないのではないのかと思う。

これは何となくの実感でしかないが。

その理由として,以前,口野さんと話していて感じたことがあった。

それは,年長の口野さんと僕とでは,年が一回り違うことだ。

この違いが実はとても大きいのだ。

 

というのは,口野さんの親父さんは戦争の終わり頃は大学生で,下手をすれば学徒出陣だったかもしれないのだ。

僕の父は,戦争が終わった年にはまだ小学校に上がってはいない。

そのため,僕は戦争についての嫌悪感を聞かされたことはほとんどなかった。

口野さんにそういったことがあったかどうかはわからない。

でも,その年の人たちの戦争に対する嫌悪感というのは,明確に言葉にならなくても,ある種の空気のように漂っていたのではないかと思う。

 

それが体制の動きに対する警戒心をもたらしていたのではないか。

特定秘密保護法集団的自衛権の解釈変更の問題は,もっと盛り上がっていいと思うのだが。

 

もちろん,団塊の世代や,新人類だとか,ロスジェネだとか,ゆとり世代だとかと言って,勝手に時代区分をしてその人たちを同質なものとしてみることは間違っているだろう。

 

でも,支え合うという感じは,僕を含めて今の若い世代よりも,上の世代の方があったと思う。

 

だから,体育同志会をはじめとするサークル活動をしている人には,新自由主義のむき出しの競争よりも,支え合う体制をつくっていくことで,若い人も自分もハッピーになれるようになってほしいと思うのだ。

 

ということで,今年の冬大会や,来年の大阪での中間研究集会のテーマとして具体化できるようにしていきたい。

 

もっとも,その前に今総会で丁寧に説明して,承認される必要があるのだが。

 

 

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