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体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

昔話「末吉小学校」を読む2-補足をしていただきました。

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,タイトルの末吉小学校の話の続きを読もうと思っていましたが,「1」をアップしたら,菊池浄先生から補足のコメントをいただきました。

そのため,このコメントについてです。

では,どうぞ。

 

昔話「末吉小学校」を読むを書いたのは,8月19日のことだ。

正確には記事をアップしたのがその日だ。

書いたのはもっと前。

しかし,エスノメソドロジーや体育同志会の研究についていろいろ書いていたら,アップするのが遅くなってしまった。

 

しかも,先日は大阪に健康教育の実践を聞きに行き,それを2日連続でアップした。

その後も大津さんや上野山さんとメールのやりとりをしたので,そのことについても書きたいと思っている。

また,その次の日には名古屋で森敏生さんの研究会にも出たので,それについても書きたいと思っている。

 

しかも、25日は学生を連れてキャンプに行くのでそれも書かないといけない。

ただし,この日は台風が来るようなことになっている。


くどくなってしまったが,ということがあって,この「昔話『末吉小学校』を読む」も,記事をつくってアップするのが,飛び飛びになってしまうのだ。

 

で,19日に載せたら,菊池先生からブログの内容を補足する内容のメールをいただいた。

ありがたいですね。

素直に嬉しいです。

上野山さんも,昨日のブログにコメントを寄せてくださった。

これも嬉しい。

さて,その菊池先生のコメントは以下の通り。

 

「ブログを拝見していたら、堀江さんが理科の話をした事が書いてありました。
私が補説をすれば多分次のようなことだと思います。

奥山英虎先生はよくスチールウールを燃やしました。
子どもは燃やしたから軽くなると言いますが実際は重くなります。
酸素が鉄に着いたからです。
実験としては鉄がぱあっと燃えてやがて燃えかすになります。それだけのことです。
ですが、子どもの感想は様々です。

1 パアッと燃えて面白かった。鉄が燃えたぞ。
2 燃えたら重くなった。
3 重くなったのはなんかくっついた。
  くっつくには手があるかもしれない

言いようは様々ですが、だいたい上の三つに収まります。
結論を急げば

1は現象論的認識です。

2は実体論的認識です。
3は化合といういう新しい出会いへの予測です。本質論的認識です。

同じ場面を見て いて、1で喜んで終わる子もいれば、3にたどり着く子もいる。
授業者としては1の子も 3にたどり着いてもらいたいわけで、
他の実験を模索し、化合することで性質や形状が変わるというところまで
たどり着かせようとするでしょう。

体育の技術の系統にしろ典型にしろ、本質論的認識にどうやってたどり着かせるのか
そのための話でしょう。
今どの段階に子供がいるかを知るために大事なことだと
思ったのではないでしょうか。
私はそう思います。

 

菊池先生の文章は本当にテンポがいい。

さて、先日書いたのは,末吉小学校では,「人はどういう風に物事を分かっていくのかという議論があった」ということ,それに対して様々な本を読んだということであった。

実はこのことを「『たのしい体育・スポーツ』7.8月合併号に堀江さんが詳しく書いている」と僕が書いたことに対して,菊池さんが補足してくれたのだった。

 

堀江さんは『たのスポ』で次のように書いている。

「(この課題の)前提となっていたのが,レーニンの『哲学ノート』,オコンの『教授学習過程論や武谷(三男)の『弁証法の諸問題』でした(図1)。

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奥山英虎氏は,抽象的(本質的)な概念やその法則の理解には,抽象的な概念やその法則の理解と,具体的な物事の理解の間に,抽象的な概念の一部を持ちしかも具体的事物の一部分を持つ反具体的な事物の存在が不可欠であると考えていました」(『たのスポ』7.8月合併号,50頁)。

 

菊池さんも,全く同じことを述べている。

ここに,その当時,かなり詰めた議論をしていたことがよくわかる。

教材の研究ではなく,子どもの研究,しかも,子どものわかり方の研究をする人はおそらく少ないだろう。

 

しかし,考えてみれば,子どもがつまずくのは,理論と実践,具体と抽象,現象と本質をつなぐことができないからであり,それをいかに橋渡しするのかが,教師の側の課題である。

だとすれば,この理論と実践,具体と抽象,現象と本質の間に,何かを噛ませる必要があると考え,それが武谷の認識の三段階理論をもとになったということであろう。

 

そして,菊池さんは,子どもの理解にもこの現象と本質の間にある実体的な認識の段階があると非常に具体的に書いている。

 

実は,これもよく考えると,「リアリズム一元論」なのだ。

アリやゾウなどの具体物と数(1匹,2匹)などの間に,タイルをおいたのは数教協であった。

体育同志会では,子どもと近代泳法の間に,ドル平をおいた。

中内敏夫さんの例の,水泳(泳法)の側をその本質を保ったままで,子どもの生活性や論理性の方に屈折させて作り出したということだ。

 

次は,体育ではどう引き取って,子どもたちの認識をどう取り出すのか,これが次の課題になります。

 

 

 

 

 

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