体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

月曜学習会という研究サークルのことを書こうと思ったのですが・・・

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は月曜学習会という研究サークルの話を書きます。

勝手に書いて,載っけたら怒られることがあるといけないので,許可を取りました。

ご安心ください。

秘密結社ではありませんでした。

では,どうぞ。

 

大貫耕一さんが,あるときからまた月曜学習会(以下,月学)のニュースを送ってくれるようになった。

実は,僕は和歌山大学にいた頃に,一度月学にお邪魔したことがある。

そのときに,ニュースを送ってくれたのだが,僕が大学をかわってしまったので,送り先がなくなってしまったのだろう。

それが,またあるときから送ってくれるようになった。

これはなかなかいいのだ。

 

さて,いまから10年近く前,いやおそらく2007年の今頃のことだと思うが,僕は日体大に佐々木賢太郎さんの資料を見にうかがった。

そうそう,その日の夜に佐々木さんの話を月学でして,その次の日に東大附属へお邪魔したのだった。

そのことは,東大附属中高へ行った話 に書きました。

 

そのときは,まさに佐々木賢太郎さんの話をしたのだが,話がかみあわなかったように記憶している。

これを記述しておくのは,非常に重要な意味があると思う。

 

というのは,僕たちは自分のしゃべっている言葉が,いつも同じであるとしばしば勘違いする。

いつもそう思っているという錯覚が起こるのだ。

たとえば,僕たち体育同志会の人たちは ,「子どもを大切にする」とずっと言い続けてきたりする。

それは,その通りなのだろう。

おそらく,そこに齟齬はない。

が,子どもを大切にするその仕方の話になると,時代によって,同じ時代でも地域によって違いが出る。

 

子どもを大切にするのは,どの子どももできるようにする,グループで教え合う,自分の意見を言えるようにする,というように大切にする仕方もある。

これは同志会的な子どもを大切にする方法。

しかし,佐々木賢太郎さんのように,遅れた子どもや弱い子どもを守ることを鮮明に打ち出して,問題解決学習を行うというやり方もある。

あのときに,技術指導はない(あるけど、今とは違う)。

単純化すれば,集団づくりにおける「規律から解放へ」というベクトルか,「解放から規律へ」というベクトルかの違いに近い。

 

しかし,佐々木さんのやり方を聞いたとしても,今までの自分たちの考え方と比較して,「何か違う」となるのだろう。

その違いから来るであろう違和感を,僕はそのとき感じ取った。

それは,石井ちゃんの実践に出会った冬大会の人々の違和感も似たような種類だったと思う。

 

でもね。

おそらく,そのあたり(2007年ごろ)から,東京の人,月学の人たちも徐々に変わったはず。

残念ながら,「僕のおかげ」ではない。

久保健さんが,東京に行かれたから。

久保さんが宮教から日体大に移られたのが,2006年のこと。

 

僕は覚えているけど,数年前に『たのしい体育・スポーツ』に掲載された「K子」さんという人の実践記録に,「表面的にはおとなしくて問題のなさそうな子ども」たちに,体育,多分器械運動で「ゆさぶりをかけた」というような表現が出てきた。

「Y澤」さんの実践記録にも,「記録に子どものことが書かれていない」だったか「生活がにじみ出ていない」だとか,指摘されたと書かれている。

そして,それを意識して書いたということだ。

つまり,久保さんの実践記録を読む目は,あるいは実践を評価する目は,そこにあるのだ。

その目線は,宮城の人たちに共有されている。

 

でも,だから,まだまだ弱いのかもしれないけど,東京の人たちに浸透してきていることはまちがいない。

石井ちゃんの実践記録も,50ページもいらなくて,話の中心軸を据えて報告すればよかったのかもしれないが,今言ってもしょうがないね。

 

これは,先日愛知と兵庫の支部単位での交流集会が持たれたときに,愛知は文化を中心に語り,しかし,兵庫は子どもの発達という観点から語ったという違いがあったという貴重な伊藤報告にもつながる。

僕らはいつも話がかみあわないのだ。

それが,かみあうようになっていく。

でも,なぜかみあうようになるかはわからない。

 

もちろん,かみ合わせたくない主義主張の違いもある。

が,それはそうだとしても,いつの間にか相手の主張の言っていることがわかるようになるという意味で,かみ合うのだ。

わかるけど,それには違和感を感じるという意味では,かみ合わないということだろう。

 

で,今の月学のメンバーと当時のメンバーとは違うのかもしれないが,おそらく,今のメンバーの方が佐々木実践に対して違和感が少ないと思う。

それは,久保さんのおかげであり,制野さんや矢部夫婦などの宮城の実践のおかげだと思う。

これは体育同志会の子どものとらえ方というか,捉える仕方が変化してきているのだと思う。

こういうのは,検証しようと思えばできるのだろうが,今はやらない。

 

口をついて出る言葉が変化しているのだが,その変化には自分は気づかない。

本人は,昔からそうだったと思っているのだ。

これが構造主義的な見方である。

 

僕の家には,ドリフの「全員集合」のDVDBOXがある。

子どもたちが見て大笑いしているのだが,今,僕が見ると,かなり恥ずかしいというか,今,そんなこといったらPTAから総スカンだと思った。

もちろん,当時も総スカンだったが。

表現がどぎついのだ。

でも,当時は他の夜の番組を見たって,そういうものだった。

刑事は,基本的に暴力的だったし。

 

ああ,月学について書きたかったことの前の話が展開されてしまった。

よくあることだが。

 

よかったと思ったことはまた書きます。

 

 

 

 

 

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