東大附属中高へ行った話
こんにちは。石田智巳です。
先日の「実践記録」の6を書きはじめたところ,脱線したまま戻ってこれなくなったので,その脱線した部分を記事にしました。
佐藤学さんの話を書いていたので,東京大学の附属中高に行ったときのことを思い出した話です。
では,どうぞ。
僕が大学院に行き始めた90年代半ばの教育学,特に授業にかかわる教育学は,佐藤学さんの一人勝ちの様相を呈していた。
僕は研究のことがまだよくわかっていなかったけど,佐藤さんの本はよく読んだ。
教科教育学会が広島大学であったときに,はじめて佐藤さんの話を聞いた。
「フォーディズムの崩壊が・・・・」
なんか全然わからなかった。
和歌山に勤めていたころは,佐藤さんは浜之郷小学校で学びの共同体をやっていたころだ。
このときには,松浦善満先生が司会のシンポジウムに佐藤さんは登壇した。
松浦さんは,今は龍谷大学にいるとのこと。
さて,まだ和歌山にいたころに,佐々木賢太郎さんの資料が日本体育大学にあるということで,久保さんにお願いして案内してもらったことがある。
その時に,久保さん(当時は,短期大学部で,研究室も合同だった)の仕事ぶりを見せて貰ったがすごかった。
電話,メールでどんどん連絡を取ってこなしていく。
その合間に話をして,時間ができたところで佐々木文庫へ。
佐々木さんの資料は,教育学関係が和歌山大学へ,体育関係が日体大へ送られたのだった。
僕は,和大の体育教室の会議室に,佐々木さんの資料が段ボールに入って無造作に置いてあったのを見つけたときに,ひっくり返りそうになった。
50年代のガリ版の冊子なんかもあった。
ソビエト教育学の本に,線が引いてあったりして,1952年頃の佐々木体育構想を裏付けるものもあったりした。
それは学会で発表もした。
で,和大は教育学部だから「教育関係」,日体大は体育学部だから「体育関係」。
わかりやすい。
日体大には少ししかなかったが。
その夜は,新宿事務所に移動して,僕が東京支部の数人のメンバーに佐々木さんの実践を紹介した。
当時の生活指導と結びついた体育,なかでも走り幅跳びを紹介してその特徴を話したが,なんか全然ピンと来なかったようだった。
ドロドロ,ゴテゴテした実践という感じだったろうか。
そのときに,東大附属の井口さんと会ったような気がするが,このあたりは記憶が曖昧。
でも,あのときの井口さんは大きかった。
今は小さくなってしまった。
それで,次の日に東大附属で研究会があるからと云うことで,翌日出かけていった。
東大附属の研究会と云えば,佐藤学監修とならざるを得ないと思ったのだろう。
その日に,附属で簗田陽子さんがダンスの授業をするということもあった。
簗田さんは,井口さんと大学院にいっていて,それで知り合ったのだったと思う。
で,附属に行ってみると,結局研究会は中止になっていた。
体育の研究会が中止になって,理科だかの研究会になったのだった。
この辺も記憶があいまい。
でも,そのときに,佐藤さんの「学びの共同体」をもじって,「僕らは『マナブの共同体』ですから」とどなたかが云われたことが今でも印象に残っている。
佐藤さんには,「体育はその歴史的使命を終えた」とか云われたりしたしね。
そこで,はじめて淺川さんにあった(と思う)。
そして,淺川さんと家庭科だったかの女の先生が,ふたりで教室で行った授業を見せてもらった。
教室は,もちろんコの字型の机配置。
このときに,僕ははじめてすごい授業を見た。
これは何という授業なのか,今でもわからない。
「二人の先生が行う授業を何といいますか?」
「はい,チーム・ティーチングです。」
「それはどのような授業ですか?」
「基本的には,T1は授業を進めます。T2は子どもの様子を見て,指導をしたりします」
「そうだね」
じゃあ,あの授業はなんというんだろう。
ひとまず,単元もよく覚えていないが,高校の健康だか生活だか,労働にかかわったような授業だった。
社会に出たときにどうするのかという意味では,公民的な要素もあったようだ。
で,授業はというと,淺川さんと女の先生の二人とも前に立っている。
二人が前に立ってどうするの?と思った。
授業が始まった。
なんと,内容にかかわる話をどちらもがするのだ。
例えば,淺川さんが最初にしゃべったとして,一息ついたと思ったら,女の先生がしゃべり出す。
そしたら,その話の補足を淺川さんがする。
もちろん,生徒とのやりとりもあるし,生徒同士のやりとりもあった。
でも,基本的に二人が交互にしゃべっている。
普通,そんなことをしようと思ったら,遠慮して話がしにくいと思うし,「そうじゃないんだけど・・・・」とか思ったりしそうなものだ。
それが全く無かった。
漫才をやっているわけではないが,息はぴったり。
その後,体育教官室へ行って,東大グッズをいただいて帰った。
帰りの新幹線でも,「あれは何だったんだろう」と思ったりした。