体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

『たのしい体育・スポーツ』 4月号(№290) 「座談会」を読む

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,『たのしい体育・スポーツ』4月号(№290)の座談会を読みます。

座談会というのは,なかなか難しいものです。

そのことも含めて,考えたことを書きたいと思います。

では,どうぞ。

 

『たのスポ』に座談会が載っている。

「はじめてみようグループ学習」という座談会だ。

 

僕は,これまで2回,雑誌用の座談会に出たことがある。

一度は,「たのスポ」の2007年2月号。

このときは,僕はその号の担当となっていたので,司会をした。

テープ起こしと原稿作りは僕はやっていない。

このときの話し合いそのものがとても良かった。

今でも,元の原稿というのか,テープ起こしの原稿は手元にある。

が,なかなか読めないね。

 

もう一つは,2008年の『運動文化研究』で,指導要領の改訂に併せてもった企画だった。

このときは,岨さんが司会をして僕も一応参加したが,僕がテープ起こしをして,一応の頁数に収めるように原稿を作った。

これは大変だった。

この作業をやったことがある人はわかると思うが,まず話し言葉は日本語になっていないことが多い。

単純に言えば,しゃべっている言葉の端に新しい話が生まれてきて,方向が変わっていくのだ。

聞いているときは,何となくわかるが,文章にして読み返すと,一文にいくつかのことが入っているのでそのままでは,使えない。

だから,本人に文章にしてもらうことになる。

 

それと,ここが決定的に難しいと思うのだが,僕たちは,話をするときも聞くときも,自分の枠組みを持って話したり,聞いたりしている。

だから,誰かが話したことが全然引っかかってこないというか,入ってこないことがある。

でも,別の人はすごい反応を示しており,ある種の疎外感を持ったりする。

で,問題なのは,テープ起こしをして,それを原稿にまとめるときに,自分がよくわからない話は,まとまったストーリーにすることが難しい。

だから,カットされる可能性があるのだ。

 

逆から言えば,僕がまとめるにあたって,僕の興味(というか,自分が大切だと思ったこと)を中心にまとめると,今度は読み手の枠組みに引っかかっていかずに,結果として入っていかないということも起こる。

でも,いいのだ。

いつでも,人と人とはズレが起こっていないといけないのだ。

一致する集団というのは,怖いよね。

一致しなかったら粛正・・・ということはないにせよ。

 

もう一つの問題は,参加したということは,発言しているということである。

テレビである芸能人が問題を起こしたときに,すでに収録済みの映像は,編集し直される。

そして,放送では登場しないから,あらかじめいなかったことになる。

それと同じで,いたのに発言がないということも起こりうる。

というのは,その人の発言が拾うべき対象となっていないことが,あくまでも可能性としてはあるから。

わかりにくい話をしたが,要するに全員載せるけど,そのためにはそういう文脈を作らないといけないということと,もう一つ,発言のバランスにも気を遣うということだ。

 

さて,そういう観点から座談会を見てみたい。

これは,司会の森さんが苦労されたことがよくわかる。

というか,編集した人が苦労したというべきか。

森さんの発言回数が18回。

あとは,数えてみてください。

 

司会だから舵取りをしないといけない。

でも,座談会は順番発言ではなく,あるテーマで発言に対して発言をかぶせるようにしていくといいのだが,編集された原稿ではそうなっていない。

そうなっていたのかもしれないが,コンパクトにしようとしたから,つなぎの部分は割愛したのかもしれない。

森さんが会話をつないでいるのだ。

 

一つ難しいのは,自分の一次体験の束を一度自分の中をくぐらせて,二次体験として語っているということ。

一次体験というのは,具体的なできたてほやほやの実践を語るときに,固有名と文脈と状況がリアルに語られるそれ。

二次体験というのは,脱状況,脱文脈で自分の中にできあがった物語のようなやや一般化された話となって語られるそれ。

 

だから,一次体験の交流ができると,もっと具体的な悩みや成功体験のリアルがこちらにもグイグイ来るのではないかと思ったりするのだ。

しかし,それは難しいよね。

 

それともう一つ難しいのは,つぎのこと。

今のグループ学習というのは,この原稿を読めばわかるのだが,基本は「わかる」ことを媒介とした子ども同士の学習のつながりの組織となる。

そして,「わかる」ためには,出来具合の違う他者の存在が必要というあれだ。

ちょっと先鋭的になると,教科内容研究の成果が出てくる。

 

そして,カリキュラムとの絡み,前の学習を次に生かすとか,4月には何をするだとかだ。

編集した人は,この部分が強調されるように編集したのではないかな。

「はじめてみよう」といいながら,みんなバラバラ好きなことをいっているというのではまずいからね。

 

僕は,國井さんの発言を読むと,とても勉強されていると感心する。

27ページの発言は,カリキュラムとの絡み,子ども同士の学びの組織方法が出ていて,しかも,体育同志会で到達した水準に来ているという感じだ。

井口さんも発達階梯が違うが,実態がわかるのと,教科の担当ということがよくわかるように書かれている。

中学校ということで,やや絡みにくいのかもしれないが。

 

だとすれば,井口さんがちらりと書いていたように,ゴールのイメージもほしいね。

埼玉の山内基広さんの授業の映像を見たときに,6年生の最後は自分たちで計画を立てて,班長会議をもとに自治的に進めていくというグループ学習だった。

山内さんを持ち出すと,あれは特殊といわれてしまいそうだが。

大阪の山本まあさんの6年生の授業も,とにかく授業が始まってから準備運動,ボール操作ぐらいまでは全部班で考えて班でやらせるのだ。

うまくすることもだが,なるべく教師が口を出さずに,子どもたちにやらせる授業だ。

まあさんは,データもすごく取らせていて,グループノートも充実していた。

 

そろそろ終わりにするが,石井ちゃんの発言は,子どもをよく見なよとなっている。

井口さんも,中学生の難しさを語っている。

もちろん,木村さんの特支の子たちもそうだが。

そこらへんの難しさへの一次体験の語りがほしい。

あるいは,自分はグループ学習をやってどんな気づきがあってどんな工夫をしたのかとか。

紙幅の都合かな?

 

前にも書いたが,体育同志会のグループ学習はもっと多様だと思う。

ここでは,多様性を前に出してはいけないのかもしれないが。

体育同志会のグループ学習の質的転換はなされるのだろうか?

いまでも,色々な風が吹いているのだが。

 

10年後の座談会では,また違う話になっているといいのですね。

 

 

 

 

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