体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

「『実践』の零度」について

 こんにちは。石田智巳です。

 

3月1日のブログの記事では,「実践の零度」について書こうと思ったのですが,余計な話ばかりしているうちに,『身体の零度』(三浦雅士講談社メチエ)の話になり,スポーツの零度を話して終わりました。

 

余計な話は,僕なりの親切さの現れのつもりなのですが,どうしても途中で最初に戻って,「と思って書き始めましたが,最後までいきませんでした」とか,「途中で話が変わってしまいました」ばかりになります。

やはり,書いてみると自分の頭の中がわかっていいものです。

そうか?

 

で,今日は実践の零度です。

繰り返しますが,「零度」とは,ある出来事が起こったり,言葉が成立したその地点のことです。

では,どうぞ。

 

さて,ようやく実践だ。

生活綴方のことを調べているなかでわかったことであるが,この言葉が使われるようになるのは,だいたい1930年代のこと。

ということは,それ以前には「実践」という言葉はなかった(使われていなかった)ということになる。

本当か?と思って,「綴方生活」という1929年にできる雑誌(これをもって生活綴方の誕生とする雑誌)の復刻版を最初から順番に見ていった。

とはいえ,目次を読んだだけ。

たしかに,1930年代なかばになって出てくるのであるが,それらの本文を読むと,揺籃期には今の教育実践の意味とは違うのかなと思わせるような記述もあった。

 

僕は,上田庄三郎という戦前の評論家(以前は教師)の文章で,1930年代だと知ったのだが,でもそれは,中野光(なかのあきら)という人が紹介していた文章で知った。

上田さんの『激動期の教育構図』という本が1934(昭和9)年に出るのだが,次のように書かれている。

 

「『実践』は現代教育の標語であるとともに,現代社会の合い言葉である。

『践』の一字が最近には盛に生彩を帯びてきたようである。

 従来,『教育の実際』などと用いられた実際という言葉が,何となく迫力を失い,新に『実践』という意志的な言葉が愛用されるのは,時代への動きを表している。

そこにはこういう研究態度の自らなる自己批判が見える」(『上田庄三郎著作集』第3巻,1977,303頁)。

 

上田さんは,ここで実践という言葉を使いさえすれば事足りるという思想性のなさを批判しているのだ。

この文章は全体に批判的で挑発的であった。

そして,それまでは「実践」ではなく,「実際」という言葉が使われていたということがわかる。

「実地」という言葉も使われていた。

ちなみに,1961(昭和36)年の本(仲間づくりの体育)の後ろの新刊紹介にも,「小学校体育の実際指導」という本の紹介がなされている。

 

で,上田さんは,同じところでこうもいう。

「従来の教育研究が,如何にも欧米追随的であり,大家の学説の模倣に傾いていたところから,教育の現実のなかに深く徹入して,そこから新しい創造的な教育原理を打ち立てよう,実践こそ教育打開の唯一の鍵であるという実践家としての自覚からも来ている。

現代的実践の魅力は,そうした教育研究の自己批判から来ているからであろう」(上掲,同頁)。

 

その2年後には,村山俊太郎という山形の綴方教師も次のように述べている。

「最近わが国の教育界が特に求めてゐる『実践』の掛声は,むしろ理論的偏重の結果『実践的貧困』に対する反動ではなくて,教育の実践を指導することを本領とする教育学が,方法論部面の貧困なるに対し実践家たちが失望した結果の現実であり,理論を閉脚しようとするものの現はれではないかと思ふ」(「『生き方』に於ける芸術性と環境性」『教育・国語教育』1936.4)。

 

理論→実践というベクトルの空虚さに失望した実践家が,実践→理論というベクトルへ置き直そうとしたとも言える。

 

昭和前期の歴史に詳しいわけではないのだが,1936年というのは,15年戦争の始まる年になる。

1929年に世界恐慌の影響を受け,日本では1933年頃は農村恐慌もあり,持たざる国日本は戦争へ進むわけで,国内がかなり混乱していたことは確かだ(と思うがそうでないという指摘もある。むしろ今の世の中と同じという指摘だ)。

 

教育も,翻訳は出ているけど,農村のひどい生活に対しては,何のリアリティもない。

その実践とは,まさに下からの実践,生活綴方の実践であったことは想像に難くない。

そこで使われた実践という言葉が一人歩きをして,意志もなく,思想ものないものにまで使われていることを上田さんは批判したのだろう。

もう一つ好き勝手にいえば,実践は教師の「実戦」というメタファーとしても捉えることもできるかもしれない。

 

上田さんの著作集を編んだ方の1人に,川口幸弘さんという方がいた。

その方が,『生活綴方研究』(白石書店,1979)という本において,よりくわしく『実践』という言葉の零度について調べている。

 

が,ここでは紹介できませんので,またの機会に。

 

 

 

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