佐々木賢太郎さんの息子さんに会う2
こんにちは。石田智巳です。
昨日は,佐々木賢太郎さんの息子さんに会うというタイトルで書きましたが,会う前の話で終わってしまいました。
今日は,タリーズ・コーヒーでお会いして,話したことについてです。
あまり,詳細は書けないかもしれませんが,とりあえずその話です。
では,どうぞ。
日曜日の昼前の11時,タリーズはそれなりに混雑していた。
僕がお店に着くと,すでに来ておられたようだった。
というのも,初対面だからお店に入っているお客の誰が佐々木さんなのかわからない。
あるいは11時まで2~3分あったので,まだ来ていない可能性だってあった。
そこで11時まで待ってみて,それからお店に入ることにした。
しかし,目があう人がいたのも確かだ。
目があうということは,先方も人を探しているということなのだろう。
でも,外で待っておこうと決めたところに,その方に呼ばれた。
こうして,10年前に手紙やメールのやりとりを始めたその人に会うことができた。
息子さんは,父親のことを語るときには,必ず「身内なので贔屓目に話してしまうかもしれない」と恐縮しながらいわれた。
さらに,とても聡明な方で,いろいろなことを知っていた。
これは後からまとめてみたのだが,次の人たちの名前が出て来た。
鶴見俊輔,蓮見重彦,網野善彦,中井正一など,そして,矢川徳光,国分一太郎などである。
他にも僕は知らない人もいたので,それについては書けない。
最初は,和歌山大学と今の大学の違いのこと,昔,僕の今いる大学を受けようとしたけどやめたことなどの話をした。
その後,賢太郎さんの話になった。
まずは僕が昨日書いたような,佐々木賢太郎研究を始めることになったいきさつについて話をした。
そして,僕が賢太郎さんの果たした役割を褒めて,賢太郎さんは「信念の人」だという言い方をした。
そうしたら,そんな人格者ではないということをいわれた。
これは,謙遜というのとはちょっと違って,町の実力者のようなものではないという意味にとれた。
だから,そうではなくて,戦後生活綴方を用いた体育を志したときに,真鍋精兵衛さんや藤田伍与さんらからの影響,山びこ学校や当時の中央の人たちからの影響があったにせよ,中学体育の教師として徒手空拳で生活体育の形を作っていったこと,そして,そういった体育をやったために,教育委員会や校長,あるいは一部の親からも文句や迫害があったということ,しかしながら,その信念は揺らぐことなく常に弱いものに目が向けられていたことだと話した。
一文が長くなりすぎました。
そこはどうしてなのでしょうと訊いたところ,一つは,体育の技術主義を批判したときに,戦争の経験から技術を教え込むことは,軍国主義教育と同じだと思っていたということ,もう一つは,賢太郎さん自身が幼い頃に,貧困やそこから来るつらい思いをしたことがあったからではないかといわれた。
自分がどん底の生活をしたし,戦争経験もしたから,弱い者に目を向けることができたというのは説得力がある。
どちらも,社会の矛盾であり,それは弱い者に鋭角的に表れる。
そこに多くの共感と,それに負けない反発や嫉妬がうまれた。
佐々木さんは,和歌山大学に勤める誘いがあったというが,それがダメになったのは後者の勢力が働いたからだ。
岩田中学校時代には,病休にさせられそうになった。
また,南部中学校には勤評闘争の報復人事でとばされた。
矢川徳光さんからは,「オロオロせずに」体の技師として仕事をしろと批判された。
体育同志会の瀬畑四郎さんからは,実践や理論を批判された。
組合教研においてさえも,文句をいわれたそうだ。
それでも,自分のやり方を変えなかった。
高校全入運動が起こったときも,それに反対する意見を自分の言葉で語ったそうだ。
それが民主的な運動であったとしても,悪平等になるからだ。
民主主義といえば,戦争が終わる直前か,捕虜のときに,軍医の方から,「民主主義」という言葉を始めて聞いたということもいわれた。
民主主義(つまり,デモクラシー)は,民本主義や大正自由教育などにも見られたわけだが,昭和に入るとそんな空気はなくなっていくわけで,その言葉を知らなかったのだった。
戦後は憲法を読んで感動して,スポーツ大会の冠に「日本国憲法記念○○大会」としようとしたとか,戦後の日本に期待したものがあったのだろう。
歴史のこと,思想のこと,美について,ヤクザや暴力団のこと,言葉のこと,いろいろな話をした。
とりとめのない話にもなった。
最後に,お土産をいただいた。
それは,賢太郎さんの若い頃の写真や,生徒さんからもらった手紙などのコピーである。
さらには,「遠くへ行きたい」に出て,天神崎で貝について語っている映像もいただいた。
そして,昔を振り返っているうちに,もう一度,息子の自分が親のことを褒めるのは恐縮だけど,とことわりを入れて,賢太郎さんがものすごく人に好かれたという話をしてくれた。
いつでも人が周りにいたし,いろいろな人が家に泊まりに来たという。
隣のおばやんも,おいやんも,若い人もみんな「賢ちゃん」と呼んでいたそうだ。
とにかく,好かれ方のレベルが普通と全然違ったという。
捕虜から戻って赴任した学校の生徒だったという方からは,賢太郎さんは,今でいうアイドルのような存在だったことを聞かされたこともあった。
ついつい話し込んでしまい,気づいて時計をみたら昼の1時を過ぎていた。
2時間も話していたことになる。
この日は,妻の誕生パーティーもあったので,腰を上げざるを得なかった。
僕は,東京には毎月行っているのだから,また話もできるだろうし,白浜にいかれるときには,白浜で会うこともできる。
充実した2時間でした。
これで,もっと研究を進めないといけないと思いました。
自分で云うのも何だけど,壮大な構想を立てているので,進めるのが難しいのです。