『たのしい体育・スポーツ』 12月号№297 狭間論考を読む
こんにちは。石田智巳です。
今日は,『たのしい体育・スポーツ』12月号を読んでみます。
論考は,京都支部の長尾庸人(つねと)さんと,和歌山支部の狭間俊吾さんでした。
2つの論考を小学校の先生が執筆するというのはめずらしいことかもしれません。
今日は,冬大会にも登壇してもらう,そして教え子でラン友の狭間くんの論考を読んでみます。
では,どうぞ。
前に,この『たのスポ』12月号を読んだときに,編集の趣旨に対して,僕なりの意見を書いた。
それは,学校体育,とりわけ体育授業とランニング文化とを結びつけて考える必要はないというものだった。
これは,「学校で無理矢理走らされた」という経験が,いい思い出として昇華されることが大切だと思うからだ。
もちろん,体育同志会の実践,あるいはその他にもすぐれた実践があるのであって,いい実践を受けた人は,それはそれでいい思い出になるかもしれない。
しかし,そのことと,大人になってランニングをはじめるということは,少し次元が違うことのように思われるのだ。
陸上競技の長距離走を走っていた人ではない人が,走りはじめるということは,脳内になんかの物質が流れてきて,それが化学反応を起こして,走るスイッチを入れる。
その物質が流れてくるのは,健康診断の結果であるかもしれないし,久しぶりに運動して過去のように動けない自分に気づいたからかもしれないし,運動好きが手っ取り早くはじめられるからかもしれない。
流れてきた物質によって走りはじめたら,成瀬さんが書いていたように,最初は何らかの目的のための手段であった走りが,目的化していく。
それは,目に見えるタイムの向上かもしれないし,ビックリするほどの距離を一定ペースで走れるようになったことかもしれない。
僕の場合は,それに加えて,ランナーズハイとか,ランニングハイというのにやられてしまったような気がする。
まさに,何らかの物質(エンドルフィン)が分泌されることに気づいたときだ。
足の疲れや呼吸の苦しさがなく,なんとも,ポジティヴになる。
ちょうど,なんだかよくわからないモザイク状の絵を近づけたり,遠ざけたりしながら見ていたら,あるときに,3Dのクリアーな画像が見えたときに似ている。
そう,頭の中がクリアーになるのだ。
そして,これが現れたら,次の課題はこいつをハンドルするということだ。
調子に乗って,そのまま走っていると,ペースが上がって,あるときに麻薬は切れる。
切れたら,途端に現実世界に戻される。
この世界に近いところにパラレルに存在する別世界から,重力によって重さを感じるリアルなこの世界に放り込まれるように。
そう,これは村上春樹さんの小説のようなのだ。
というか,村上さんが,学校体育でむやみに長距離を走らせるのはやめた方がいいということをいっていたのだった。
話が戻ってきた。
要するに,体育授業の中心は「走ること」にあるのであれば,どうやっても長い距離を走らされるという経験になるから,それはそれでよくて,将来のランニングにつなげることを考える必要がないということが言いたいのだった。
と,「かぜ」の後に書かれている文章を全く読むことなく,失礼な斬り捨てをしてしまった後で,狭間論考を読む。
前半のマラソンブームと都市型マラソンの話が面白い。
日本は観光立国を宣言し,昨年の1300万人から,今年は1900万人の外国からの観光客をねらっている。
9月の時点で,昨年の実績を上回り,1900万人は達成されるようだ。
だから,ホテルがとれないとか,民泊の問題とかあるが,それは置いておく。
金沢と富山が1週間あけて開催され,市民ランナーを置き去りに,観光客を奪い合っているのではないかという。
まさに,商業ベースなのだが,こういうおもてなしが好きなのも日本人(だけではないかもしれないが)の特徴なのかもしれない。
どっちも申し込んで,あたった方に行くとかしてみたいね。
どっちへ行っても,寿司がうまそうだし。
さて,狭間くんの授業構想はなるほどと思わせられた。
一定ペースで走るランニングの経験をさせるのは「当然」なのだ。
それに加えて,コースを選んだり,給水・給食を考える実践も,実際のマラソンを考える上では必要になるという。
真面目に考えれば,塩分・糖分・水分は絶対に必要。
また,あんまり真面目に考えすぎなければ,スウィーツマラソンがあったりするし,奈良マラソンだって,ぜんざいとかもある。
パリマラソンなんかワインも置いてあるという。
楽しみ方はそれぞれだ。
給水だってうまく飲まないと鼻に水をかけることになる。
そして,もう一つの発展型が「大会運営を行う主体者形成の場」としての授業だという。
スポーツは,「する人,作る人,支える人」の「三層」からなるため,する以外の2つの層に目を向けさせるわけだ。
体育同志会では,かつて伊藤高弘さんがスポーツの三層構造という言い方をした。
一番上のプレイ場面とそれを支える「組織」,さらにはその下層にある「社会的な条件」に目を向けることが必要であり,それがスポーツ分野の主体者に必要になるといった。
この三層を授業で(狭く)とらえれば,「3ともモデル」になる。
今はかつてとは違って,やはり商業資本が入り込むので,どちらかというとお膳立てられたスポーツであり,それを支えるという形になりがちだ。
京都の木津川マラソンは手作り市民マラソンであるので,市民のスポーツ要求に応えようとしたマラソンであって,都市型マラソンとは全く違う。
子どものうちはマラソンがしたいという要求はあまりないかもしれないが,スポーツ要求を組織して,それをかなえる実践が出てくると面白いと思う。
長野の小山さんの実践はそういう実践である。
とりあえず,奈良マラソンです。