体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

エスノメソドロジーについて5 -「精神医療批判」を読む2

こんにちは。石田智巳です。

 

あることをきっかけに,「一番搾り」が「極ゼロ」になってしまいました。

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そう。痛風です。

なぜか,右肘です。

 

さて,今日は,昨日の続きで,山田富秋さんの「精神医療批判のエスノメソドロジー」の続きを読みます。

これは,精神医療施設の出来事なのですが,やはり学校がメタファーとなっています。

ものすごく考えさせられました。

では,どうぞ。

 

昨日は,バザーリアというイタリアの精神病院の院長をした方の改革の前段階までの話を紹介した。

精神病院にせよ,監獄にせよ,外界に接触できないような状況を作り出すと,支配-被支配の関係ができ,支配する側は支配される側の人間の尊厳を破壊するように振る舞い,ほとんどその秩序を維持することが日常生活の目的となる。

 

支配される側は,支配する側のルールに基づいて自立を求められるわけだから,これでは自立はできずに,ほとんどいじめの対象になる。

この秩序を壊すことをバザーリアは目的にする。

 

その方法として,この「秩序が当たり前である」ことを括弧に入れる,すなわち現象学的還元が選ばれる。

しかし,現象学的還元は,個人的な知覚と判断を切りはなすという意味で使われることが多く,これをどのように集団的な秩序に対する集団的な還元を行うのか。

 

ここからは,エスノメソドロジーの実践というよりも,ナラティヴの実践に近いことが書かれていると思う。

 

バザーリアたちは,イギリスのある治療共同体を訪れ,帰ってから病院の「開放」を実践する。

この場合,当然,支配-被支配の関係を実質的に壊すことが実践の目標になる。

どれだけ,平等だと叫んでも,行動が変わらなければ支配-被支配の関係は崩れない。

そのために,まず患者をしつけたり,ある一定の道徳に従わせることという,「学校文化」が放棄されなければならない。

 

そして,「いま,ここで」の現実と接点を持つために,病院運営にかかわって二つの改革を行う。

一つは,作業療法として行われていた病院内労働を廃止して,賃金労働にする。

つまり,仕事をした場合,病院の外で支払われている賃金と同じ賃金を払うようにした。

これは賃金を払う=被搾取ということもだが,外部の労働者と自分たちとを同一視できるようになることが大切なのだ。

 

もう一つは,治療共同体のミーティングを取り入れた「アッセンブリア」という集会を毎日開いたことである。

この特徴は,みんなが対等・平等に発言をするというのではなく,長い間沈黙を強いられてきた患者たちが表現の機会を持つための場所だったという。

ここで患者は,怒りを表現したりするだけでなく,混乱した思考を表現することができたという。

 

これがナラティヴ・プラクティスに似ていると思うのは,マイケル・ホワイトの本で読んだのだが,カウンセラーはクライアントが話すその話を疑ったり,幻想だとか思わないで,その話につきあうという姿勢を崩さないということだ。

まさに,幻影かもしれないし,幻想かもしれないのだが,それを治癒するのではなく,その世界を共有することなのだ。

発言するたびに,おかしいといわれてきた患者たちの見てる世界,生きている世界を共有することで,治療者は信頼を得ることができる。

これまで誰も、話を聞いてくれなかったことに気づくのだ。

 

これは,学校の実践でも同じで,独特なものの見方や感じ方をする子どもを,常識的な見方ですれば,授業を妨害する存在と見なすことが多い。

しかし,そうやってクラスの秩序を維持しようとすることは,その子たちを排除するか,道徳的お題目によって矯正しようとすることに他ならない。

ナラティヴ的にいえば,「いま-ここ」で常識的な推論をそういった子どもたちに権力的に発動することではなく,彼らがどうしたいのかを聞き取って,あるいは読み取って言葉にしてやり,問題を解決しようとする実践である。

 

この子どもの要求を丁寧に読み解く実践は,体育同志会でいえば,兵庫の大宮とも子さんたちの障害児に対する実践がこれに近いのだと思う。

 

この「アッセンブリア」は,でも,いつも混乱していて,敵意,暴力などカオス状態になったという。

しかし,このことを通して,個人に属していた問題が,みんなのものとなり,集団で責任を取る方向に変わっていったという。

 

具体的には,「電気ショックをしてくれ」という患者がいた。

この患者の訴えは,話し合いの結果,「自分が精神病院に監禁されているのは,自分が何らかの違反をしたに違いない。だから,自分は罰せられるべきだと思い込んでいる」という読み取りがなされるようになる。

 

以上のような実践は,患者が入院によって体系的に奪われた自己アイデンティティの管理を回復させる実践ということができる。

それには,自己アイデンティティを剥奪する「全制的施設」のメカニズムを壊すことであった。

それは,精神医学という知識の権力を,フーコーのいう権力との闘いのように,闘って暴いて見せたということになる。

 

さて,先に「学校文化」を,道徳的お題目でしつける場という書き方をした。

学校もまた排除の論理があるのかもしれない。

それは,支援を必要とする人たち(発達障害だけではなく,授業を妨害するもの,いじめを行うもの)を,「やっかいもの」「トラブルを生むもの」と捉えて,目の前の秩序を維持するために,排除し,あるいは専門家(医者,警察,外部の施設)の手に委ねようとする。

 

そして,排除されないで残る側も,「こういう行動をとると排除の対象になる」ことをメタレベルのメッセージにおいて学習していく。

こうして,従順な身体を作り上げていくとともに,自己アイデンティティを管理されていくことになる。

 

「新しい教育社会学」は,社会で行われている現象を説明するのに有効な方法なのだろう。

しかし,再生産理論のように,現象を説明するものの,それを打破できないのであれば「あきらめの理論」でしかないと思う。

しかし,この実践は人びとの「秩序維持」という常識的推論によって,支配される人たちを救い出す=解放するという一歩進めた実践となっていた。

ナラティヴがセラピーやケアと結びついて,治療の方法に使われるように,この実践もまたナラティヴは意識されていないにせよ,方法的同一性によって問題解決を図ることが行われていた。

 

おそらく,私たちの教育実践においても,同じような解放の教育が行われているような気がする。

今後,注意して見てみたい。

 

 

 

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