「言語ゲーム」から考えるの続き
こんにちは。石田智巳です。
昨日,ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」に関わる橋爪大三郎さんの2冊の本を読んでみて,なんか出てこないかなと思って書いてみました。
本の紹介でもなく,理論の紹介でもなく,何となく中途半端に終わったのですが,最後あたりに書いたことが,いいたかったことなのかなと思いました。
まだモヤモヤした感じがあるのですが,もう少し引っ張ってみたいと思います。
では,どうぞ。
昨日の記事は,とりあえず「『言語ゲーム』から考える」としたのだが,書き終わった後で,「『言語ゲーム』から○○を考える」としたかったのだが,よくわからないままに終わってしまったので,そのままにした。
で,今日も続きなので,同じような中途半端さが予想される。
写真はヴィトゲンシュタイン全集8巻『哲学探究』
言語ゲームに着目する理由が自分でもよくわからないけど,すごく引っかかるのだ。この何に引っかかっているのかと,ソシュールのラングとパロールの関係との位置関係をどう見るのか,この2点が知りたいところだ。
誰か教えてください。
といっても,自分でもよくわからないのに,他の人が適切な指示をしてくれるとは思えない。
だから,書いてみるのだ。
希望は,最後に書いたことである。
「人が何かに惹かれるのは,内容の善し悪しよりも,その人やその集まりの雰囲気の方が先だと思う。
だから,たまたまこのA大学のB先生のところに行ったから,Cという政治的な立場で研究をする。
同じ人が,D大学のE先生のところに行っていたら,Fという政治的な立場(CとFは,しばしば対立する)で研究をし始めることは充分にあり得る。
だから,一致するとかしないとかではなく,単純に,好きだったら一致させたいし,好きでなかったら一致させたくない,ということだと思う。」
「最後の話は,客観的な認識なんてなかなかないということ」を書いたのだった。
近代哲学は,形而上学的に,絶対的な正しさ,明証性,疑えない底を探る営為を続けてきた。
それは,デカルトの『省察』にあるように,人間は不完全だからだ。
しかし,不完全な認識でしかないのならば,その上に築かれる理論もまた不完全でしかない。
だから「客観的認識」を探ろうとしたのだ。
しかし,フッサールにしても,ヴィトゲンシュタインにしても,人間の認識はそんなものじゃないといった(のだと思う)。
つまり,主観-客観図式から抜け出そうとしたのだ。
「言語ゲーム」のアイディアは,文脈や言葉の使われ方によって,その都度意味とルールが立ちあがるという考え方になる。
よくわかる。
これは,国会でのやりとりや,朝まで生テレビ的な政治的な対立,イデオロギー的な対立がある場面でのやりとりを見れば,すぐにわかることだ。
これも,内田樹さんがよくいうことだが,「コンテンツの正しさではなくて,差し出し方の問題」でもある。
つまり,そういう対立の場面で,彼らがやっていることは,内容を議論するというよりは,相手のいうことを否定することを目的とした言語ゲームなのだ。
あるいは逆に,自分の言うことを相手に聞かせようとすることを目的とした言語ゲームなのだ。
両者がこの構えだったら,コンテンツはなんであっても関係ない。
要するに,議論は進まない。
最後は,多数決で,多数者の意見が通ることで落ち着く。
留保条件はない。
さて,これが「そういう状況」における言語ゲームのルールなのだ。
このルールの下で行われる言語ゲームに,相手の意見に膝を打って納得するという条項はないのだ。
もし,それを実行したら,仲間からお咎めを受けることになるだろう。
あるいは,「やじる」ことや「ハラスメント発言」なんかもそう。
相手のやる気をそぐようなことをいったり,怒らせるようなことをいったりして,冷静さを保たせないように勤勉に振る舞うというルールもある。
先日,時の首相が,質問に立った野党議員に「早く質問しろよ」とやじったときに,どなたか忘れたけど誰かから,「審議をお願いしている身なんだから,そういったことは慎むように」といわれていた。
ハートという法理学者は,言語ゲームのアイディアを法律に当てはめて,僕たちの日々の実践における法の存在(法の下での日々の実践,つまり,言語ゲームとそのルール)と,ルールに言及する言語ゲームとを区別している。
あの場合は,言語ゲームのルールに関わる言語ゲームが登場した。
それにしても,あの首相の態度はよくなかった。
まえに,ルソーの考え方を紹介したが,提案を審議してもらうのだから,提案する側が威張っていてはダメだということだが,どうも,彼の言語ゲームにはそんなルールはない。
それが若い人の範となっていることに気づかないのかな。
道徳にも「特区がある」ということを宣言しているようなものだ。
そうか,そういう言語ゲームなんだ。
戻ろう。
なんとなく,自分が言いたいことが見えかけているのだが,今日(火曜日)の毎日新聞に書かれているコラムに引き寄せられそうだ。
これはまた別の日に書こう。
ここは我慢して,もう少し言語ゲームとルールの関係にコミットしてみたい。
いいたいことを単純化していえば,実践記録を書くこともある意味で言語ゲームであること,そして,実践記録をもとにした協議会もまた言語ゲームなのだ。
それは当たり前なのだが,この次元の違う二つの言語ゲームのルールを探ることが大切なのだ。
もちろん,ルールブックや法律のような条項はないよ。
実践記録を書くという言語ゲームは,『体育科教育』の連載の9月号に少しだけ書いた(まだ出ていない)。
このときは,バルトの物語論を下敷きにした。
オリジナルな話形で書かれるのではなく,一定の型をもつことを書いた。
これは,みんながナラティヴ・モードで書いてくれれば,物語の違いが際立つが,なかなかそうなっていない。
例えば『体育科教育』なんかを読んでも,実践がセオリーモードで書かれることが多く,「思われる」とか,主語をぼかした書き方になっている。
自分が「思った」ことを書いてくれればいいのにね。
そうすれば,体育同志会の実践記録と,違う研究会や個人の実践記録との違いが際立つのだ。
でも,そのことも含めて,自分の実践をある仕方で語る言語ゲームに参加しているということなのだ。
そして,いいたいことが何となくわかったからもういいんだけど,体育同志会の実践記録にも,大きく3つのタイプがある。
もっとあるかもしれないけど,3つで結構。
が,この3つはもう少し吟味した上でないと書けないのでここでは省略。
で,この3つのうちの二つはどうやら仲が悪い。
僕の課題は,この3つのタイプの言語ゲームはどんなルールで成り立っているのか,そこに眠る構造のようなものを取り出すことなのだ。
これだけは言っておきたいのだが,違う言語ゲームを用いれば,結論も違ったものになるということだ。
逆に言えば,同じ言語ゲームであれば,同じような結論になる。
もう一つの言語ゲームである実践記録をもとにした協議会もまた,意見が割れるのは,意見を言う人が適用している言語ゲームのルールが違うからだろう。
すぐに一致させることはできないが,その違いの中から,新たなナラティヴが立ち上がるといいのだろう。
最後は,抽象度が上がってしまい,具体的な説明ができませんでした。
これを,学術論文にすればいいのだが,まさにブログという言語ゲームのルールと,学術論文という言語ゲームのルールが違うので,うまくまとまる気がしないです。
でも,書いてみて,言いたいことを捕まえられたような気がして,すっきりしました。
*頭から読み返してみると,なんでこういう結論になるのかがわかりませんでした。でも,自分なりにすっきりしたので,これで十分です。
最後の部分については,また書いてみたいと思います。