体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

けん玉の話

こんにちは。石田智巳です。

 

昨日,実技でジャグリングと,割り箸をカードで割る話を書きました。

ジャグリングは今の職場に移ってからやり始めました。

同じように,夢中になってやったことに,けん玉がありました。

今日は,けん玉の話をします。

では,どうぞ。

 

これは,もう15年も前の話だ。

僕は,和歌山にいく前に,山口県の岩国市というところで勤めていたことがある。

実はこの話は,10年ぐらい前に書いたことがあるのだが,PCに残っていない。

大学の外付けハードディスクには残っているのだろうが,家のPCにはない。

だから,どんな話の構成だったのかがよくわからない。

そのため,新しい話を書くつもりで書いてみたい。

 

僕が勤めていたのは,小さな短大であった。

はじめて専任教員になって,いろいろと苦労した。

僕の授業は,学生たちに全然入っていかないのだ。

まさに上空飛行的な話で,彼らの実感とは全く関係のない話ばかり。

学生に,「先生の授業はつまらない」とはっきり言われたこともある。

 

さて,その短大では,一般体育の授業(実技と理論)と,総合演習というゼミのような授業を持っていた。

僕の総合演習(総演)は,体育に関わる内容なので,まじめにスポーツの概念だとか,小難しいことを座ってやろうとしていた。

学生からすれば,「体育の総合演習なんだから実技だろう」と思っていたと思う。

しかし,真面目にやろうとしすぎていた。

 

秋になると大学祭がある。

その時あんまりよく知らなかったのだが,各総演は,舞台で出し物をすることになっていた。

だから,各総演の授業の成果を舞台で披露することになるのだ。

そういうのを秋に知っても,今さら何をすることもない。

 

仕方がないので,学生と話しあうが,何も出てこない。

埒があかずに,学生時代にやったことのある出し物をアレンジして,舞台で遊ぶことにした。

これは,大受けに受けたが,まさかこれの練習を毎週の授業でやってきたというものではない。

 

そこで,次の年には総演の内容も見直さなければならないし,大学祭のことも考えないといけないと思っていた。

研究室で,ボンヤリ考えていたところ,ふと棚に置いてある赤いけん玉に目がとまった。

「ああそうだ。けん玉をやろう。」

身体の使い方を学んだり,集中力をつけるのにいいやと,割と安易に考えていた。

それから,ときどきそのけん玉で昔やった技をやったりしてみた。

 

ある日,男子学生2人が僕の研究室に入ってきた。

女子学生も一人いたような気がするが,配役的には重要ではないので,いなかったことにしよう。

その学生たちは,僕のけん玉をみていった。

「わし,けん玉うまいけ~」

「わしも」

 

一人が手に取ってやるが,まあ普通にうまくない。

もう一人が代わって,やるとビックリするぐらいうまい。

一通りやった後,その学生が「このけん玉,どうしたん?」と僕に訊いてきた。

 

実はそのけん玉は,ある人にもらったのであった。

このブログにも書いたことがあるとは思うが,僕は大学を卒業する前に,突然思い立って青年海外協力隊の隊員になった。

隊員になる前に,隊員候補生として,東京の広尾で約3ヶ月の合宿研修があって,それを終えて派遣されるときに隊員になる。

なんだか,ウルトラ警備隊みたいだ。

 

3ヶ月の研修を終えて,ミクロネシア連邦のコスラエ州に派遣された。

1990年の12月のことである。

年が明けたら湾岸戦争が始まった,そのころだ。

そこでは,毎日ソフトボールの審判をしていた。

僕のいた小さな島にはなんていう名前か忘れたが,Sleeping Ladyという島のサイズに比して高めの山があった。

その山は,女性が横たわっているように見えるからそういう名前がついた。

 

問題はおそらくその山である。

南の島というのは,スコールがくる。

船に乗っているとわかるのだが,向こうから雨の一群がやってきて,僕らを呑み込んで,しばらくすると去っていく。

だから,突然ザーッと降ったらあとは何もなかったように晴れる。

しかし,舗装されていない道路や地面はぐちゃぐちゃになる。

で,山があるので,スコールも山にぶつかって行き場を失い,ずっとふっていることもよくあった。

 

そのため,ソフトボールは延期(postpone)となって,ちっとも終わらない。

試合の途中で降ってきて中止(forfeited game)となることもよくあった。

毎日雨で,ときどき晴れると審判で,何しに来たのか,ずっとイライラしていた。

僕は,島民のためにという気持ちが薄い,不良隊員だった。

 

1年ぐらいたった頃に,広島から日本-コスラエ友好協会という会のメンバーがやってきた。

どういう協会かわからないけど,コスラエは,チューク(旧トラック諸島)やパラオのような激戦区ではなかったけど,戦前は日本時代があった。

その関係もあるのかなと思ったりした。

メンバーは若い人が多かった。

 

そしたら,そのメンバーにはいろいろな人がいたが,一人の人がけん玉の名人というか達人というか,すごくうまかった。

その人は,けん玉の普及の意味も込めて,島民にけん玉を配って,やって見せていた。

それでその赤い球のけん玉を僕にもくれて,「ぜひ練習して島民にも教えてあげてください」ということを言われた。

 

普及に貢献するなんてことはできないけど,級とか段とかの書いた紙ももらって,練習したりした。

それが,1992年ぐらいのこと。

研究室で,二人の学生とけん玉の話をしたのが,2002年のことだと思う。

 

そのけん玉をくれた方は,けん玉に「愛」とか「夢」,「ねばり」とかの字を書いて,それを渡してくれたのだった。

それで,学生との話に戻るが,その学生が「このけん玉どうしたん?」と訊いてきたのだった。

そのけん玉とくれた人のことを高速回転で思い出す。

 

「そのけん玉は,ある人にもらったんだけど,その人は今田さんという広島の人で・・・」

と思いながら学生の顔を見る。

「あれ,あんたも今田だね」

「それ,僕の父ちゃん」

 

何という偶然!

何というコインシデンス!!

何というセレンディピティ!!!

 

こうして,今田さん(お父さん)には,けん玉を大量に用意してもらい,授業でも学生とやるようにした。

ただ,総演の子たちは,とても舞台で披露できるようなレベルではなかった。

おまけに僕は,その年の秋に和歌山に移ることになって,総演の子たちが舞台で何をするのかは,僕の手から離れてしまった。

 

その年の夏には,総演の子たちとみんなで海に行った。

その時には,秋の舞台では,組み体操のようなことをしようといっていた。

秋には舞台を見にいくと約束もした。

実際に短大に行ってみると,僕の後任にあたる人のクラスになっていたが,彼女たちはラインダンサーズを披露した。

とてもよい出来映えだった。

他の先生からもお褒めの声が上がった。

 

自分たちで決めて,自分たちで練習したという。

生きる力を持った子たちだった。

僕が短大に勤めたのは32~33才のころのこと。

彼女たちは今,当時の僕の年齢かそれを越えたぐらいだ。

 

僕は,その年の春から,なぜか自分がけん玉にはまってしまい,ひたすら練習した。

でも,飽きっぽいからか1年ぐらい集中して練習して,ある程度うまくなってやめた。

うまくなればなるほど,身体の使い方がわかるようになり,流れる時間がゆっくりになる。

最初は,膝で受けるように球を乗せるのだが,「すべり止め極意」ぐらいになると,膝で受けるのだが,その膝を最後に伸ばして,軽く持ち上げるように受けないと決まらない。

写真は,すべり止め極意。けん玉が旧い規格。

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これも『たのしい体育・スポーツ』6月号の特集「いのち・からだ」の「からだ」に関わってくると思うのだ。

東洋的な思想とも関わってきそうだ。

 

もう少し軽く考えないと,授業で扱ったとしても,学生にはうっとうしがられるかもしれません。

 

 

 

 

 

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