大阪みのお大会の基調提案作成中です。
こんにちは。石田智巳です。
4月4日は,午後から大阪みのお大会の基調提案の作成委員会が開かれ,全国研究局からは僕と丸山さんが参加しました。
今日はその時の話し合いの様子です。
では,どうぞ。
大阪上本町は,高の原駅から近鉄で大和西大寺へ行き,そこで大阪難波行きに乗り換えて,30分ぐらい。
家から,1時間もかからないぐらい。
近いものだ。
上本町から会場のクレオ中央までの公園では,花見ができそうな感じにしつらえてあった。
昨日は,曇りで時々晴れたりしていたが,今日からはまた雨模様だ。
今日この記事がアップされるときは,ハーフマラソンが終わった後になる。
雨の中走ったのだろう。
だから,昨日が花見日和だったのだ。
会場には,開始時間まで少しあったが,丸山さんも来られていて,始まっていた。
もともと,大阪支部の人たちは早くから集まっていたのだ。
写真は地味な感じ・・・。
僕は,基調提案の案は,金曜日に大学でプリントアウトしたのを持ってきていた。
それを,大学からの帰りの電車と,上本町へ向かう電車の中で読んでいた。
読んでみると,個々の話はわかるし,実践をベースにしていいことが書いてある。
しかし,全体を読んでみると,訴えかけてくるものがない。
もう一度いうと,個々の話はわかるし,いいことが書いてあるのだが,全体を読むとよくわからない。
なんでだろ?
とりあえず,各執筆者が自分に与えられたテーマに従って書いてみた原稿を,寄せ集めただけだからだ。
素材がゴロゴロしているのだ。
ぞれぞれ。
指揮者を無視して,自分の個性を丸出しにした各楽器の奏者が何人もいるという感じ。
よく読むと同じようなことが書かれているし,突然,話が迷宮に入り込んでそのまま終わりそうになるし。
体育同志会では,この間の大会基調提案は,情勢(社会,体育・スポーツ,子ども),体育同志会の歩みと研究課題,そして,現地からの発信としてこんな大会にしたいだとか,分科会での議論はこういう観点からも検討してほしいというものが出される。
大阪みのお大会は,大阪支部のメンバーですべてを執筆しようとした。
それは素晴らしいことだ。
しかし,ようやく集まった原稿を見ると,もっと磨かないと伝わらないと思う。
足りてないのは,揉む作業が一つ。
みのお大会は,12ながくて(文化の力を生きる力に),13あわじ(教師たちの意味の問い直し),14みやぎ(子どもの生活,意味のある授業)の延長に来る大会だ。
だから,これまでの大阪独自の研究の方向性と,全国研究の方向性,そしてこの過去の大会の流れという方向性から,何を提案するのか,つまりどこを落としどころにするのかが煮詰まっていない感じがした。
去年のみやぎ大会は,子どもの生活に焦点を当てた。
ながくて大会では,文化の力に焦点を当てた。
大阪には,みやぎ派と愛知派がいる。
これを二項対立と捉えると,どっちに行くのか?となって難しくなる。
そこに配慮してしまうと,方向性は打ち出せなくなるので(どっちかではないのだが),それで苦慮しているのかもしれない。
子どものこととか生活のこととか抜きに,教材づくり,ハウツーでもいいのではないかという声も漏れた。
いやいや,それは後退だ。
僕は,このまだまだ粗い基調提案を読んで,以下のように考えた。
とにかく,実践に言いたいことを語らせるというアイディアはよい。
しかし,そこに配置されている実践は,どういう実践を持ってきたのか,というか,何のためにこの実践をここに配置したのかが不明なのだ。
その意図を,僕が勝手に察するに,その実践に書かれているのは,次のようなことだ。
「できるようになることで力を発揮する子どもたち」
「グループ学習で,本音を出し合って,ついにつながる子どもたち」
「一人の子どもが認められることで,クラスそのものが変わるという実感」
これは生きづらさを抱えた子どもたち,社会の矛盾を鋭角的に背負わざるを得ないある層(それ以外の層も)の子どもたちが,これまでは,弱者として痛めつけられるか,排除されてきた。
これまではそうだったかもしれないが,グループやクラスの中で「イケテル自分」「心地よい場所」として新たな意味を見出す可能性が体育実践,なかでも健康教育・スポーツを教材とした実践にはあるということである。
いや,ホントにそうだから。
簡単なことではないし,成功事例ばかりではないのだが。
そして,この子どもの生きづらさと,教師の生きづらさ(大人の生きづらさ)の根も同じところにあり,若い教師が生きづらいのも子どもと全く同じ。
それは新自由主義が,二極格差を生み出し,上の層に手厚いという構造から来る。
だから,教師の生きづらい物語を,イケテル物語、心地よい場の物語へ変えていく必要がある。
しかし,そこで社会を直接変えるという発想は違うでしょ。
ひとまず子どもが変わった,クラスが変わったという実感であり,それにより「生きづらさを夢や希望に」(矢部さんのパクリです。すみません)変えていけるのだと思うし,それしかないのでは?
もちろん,そのためには条件を整えるような働きかけをする必要がある。
それと同時に,教師が連帯していく必要もある。
で,僕が最初に言おうとしたのは,子どもたちの見方をどう変えるのかということだったのだ。
70年代後半の実践記録では,偏差値で輪切りにされることによる,子どもの荒れだとか,あきらめだとかに対して,教師はまず「可能体」としての子どもという見方をすることが多い。
ツッパリは,表の社会での序列の劣等感を,裏社会での非行という勲章によってバランスを取ろうとする,つまり発達に対する苦悩が非行,ツッパリとなって表れている。
だから教師に必要なのは共感だ,というのは,「ブリキの勲章」にある。
兵庫の山内明治さんの「全員見学の水泳の授業」でも,最後は泳いでいい生徒は全員が泳げたという記録があった。
そこでも,「子どもは本当はできるようになりたいという思いがある」という見方から出発していた。
発達障害の子どもたちは,クラスや教師にとって困った子だけど,一番困っているのはその子なのだということもよく言うし,辻内さんのハチ日記にも書かれていた。
今回もそのことが書かれていたが,やや迫力がなくなっていた。
ここだけの話。
運動文化の学びを通して,どういう子どもの姿を我々が立ち上げることができるのか,これを各分科会で検討してもらったらいいのかと思ったりしたのだ。
これは反発も多いだろうね。
でもその一端が,この基調提案の実践に示されているではないか。
これはかなり僕の趣味の世界という問題があるのだが。
体育同志会は,実践の事実でものを語るという強みがある。
個別実践の事実がそのまま一般化,普遍化されるわけではない。
しかし,今回の『たのしい体育・スポーツ』4月号の座談会も國井さんがしゃべっていたし,川渕さんの実践でも、かつてのあのNHKスペシャルの制野さんの実践でも,リレー実践を春にやるのは,何らかの可能体としての子どもを見出しているのからであり,ボール運動を秋にやるのもそうであろう。
「たのスポ」4月号の座談会で森さんは、もともとグループ学習はカリキュラム研究から出てきたと言っているではないか。
そこを探るのはどうかな~って思ったりしました。
言葉足らずでしたが。