『たのしい体育・スポーツ』 4月号(№290)が届きました。
こんにちは。石田智巳です。
4月になりましたね。
まるでウソのように(!?),1日に『たのしい体育・スポーツ』が届きました。
こころなしか薄くなったような気がします。
気のせいでしょうか。
とりあえず手に取ってみたいと思います。
何が書かれるのかは,書き始めてからわかると思います。
では,どうぞ。
『たのスポ』4月号が届いた。
特集は「はじめてみようグループ学習」である。
4月号は,こうありたいものだ。
実践記録が3本と,論考,そして座談会だ。
まだ読んでいないけど,グループ学習ってどうやるの?そもそもなんなの?に応えることができるか。
やってみようと思えることができるか。
ここが大切だ。
体育同志会のグループ学習は?といわれると非常に困る。
多分人によって描くイメージが違うから。
それは,いつの時代のグループ学習を念頭に置くのかの違いでもある。
でも,もっと大切なのは,グループ学習の形ではなく,何のためにグループ学習をやるのかである。
戦後すぐにグループ学習は紹介されるが,それは軍隊式の大隊長(教師)-小隊長(班長)-隊員(班員)のイメージではないことはわかると思う。
戦後は戦争の否定から始まるから。
それでも最初は,試行錯誤だったろう。
目的は民主的な人間関係の形成にあった。
だから,班員の話し合いや協力関係が重視された。
グループ学習とは,基本的には,班長やリーダーを中心に,目標や計画を立てて,実行し,総括をして次の計画を立てる,そしてそのために必要な役割分担をグループ内で行うという組織(学習集団)のことである。
でも,これは小学校1年生には難しいわけで,学年によっては教師が手を入れる割合が大きかったり,小さかったりする。
今では,特に体育同志会では「異質協同の学び」として,習熟度別ではなく技能差(その他の差)があるようなメンバーで構成された班を指す。
しかし,1953年の学習指導要領でいえば,今でいう異質協同はB型学習といって,それとは違うA型もあった。
A型はだから,能力別のような班編制だった。
AとBと幻のC型があったが,C型は理念のみの幻。
当時は,実態調査や実験によって調べるという形で,学校の研究は行われていた。
50年代は学会の研究でも,学習形態の違いによる成果の違いの研究が精力的に行われた。
特にそこでは,
○一斉指導とグループ学習を比較して,グループ学習の方が社会性の発達に資するところが大きいこと。
○異質グループの方が,等質グループ(グループ内に技能差がない。習熟度別もこの考え方に近い)よりも「技能の伸びが大きい」ことや,「協力関係が得られやすい」こと,また,「その運動が好きになる子どもが多い」などが示されていた。
スイミングやスキー等の指導では,レベル別の指導が行われている。
これは,基本的に「わかる」ことが重視されていないことや,技能の伸びのみが評価の対象となるからである。
学校体育の目標は,「わかることとできること」さらに,学びあう経験や社会性の学習,知識などの学習がある。
こういった目標を構造化して,体育授業の,いやもっと大きく学校教育の目的を考えるときに,はじめて異質協同の意味がわかるだろう。
しかし,1958年の学習指導要領では,そういう人間関係よりも,科学的な知識や運動技能の伸びが重視され,運動技術の系統的な指導が重視されたのだった。
そのため,グループ学習=問題解決学習そのものが,体育同志会のような研究団体を除いて,廃れていくことになった。
グループ学習研究会という研究会もあったが,後に全国体育学習研究会(全体研)となって,グループ学習にはこだわらなくなっていった。
でも,よく考えれば,系統的な指導というのは,うまくなる筋道があって,その筋道に子どもを乗せていくわけだから,子どもたちが話し合って自主的に,あるいは自治的に学習を進めるグループ学習とは相容れないものがある。
だから,グループ学習か,系統指導かという問いは,子ども中心か,教師中心かという二項対立な問いとなりやすい。
しかし,そうではなくて,どちらも中心になる,あるいはどちらの主体性も発揮できるような学習の方式を求めて,「グループ学習と系統学習の統一」が研究課題となったのである。
おお,なんだか思い出してきたけど,僕はそんなことをこの4月号に書いているのだ。
残念ながら,特集ではないが。
僕の原稿は,連載「時代を拓く実践をたどる」の原稿(30-33ページ)だ。
その30~31ページぐらいに書いてある。
さて,体育同志会のグループ学習は,以下のようなやり方が区別される(と思う)。
①教師が,技術的なポイントを発問の形で子どもに与えて,それをグループで探求させることを中心とするやり方。
この場合は,教師の教材研究(指導法の研究)が中心となる。
絶対に通らなければならない技術ポイントは何か。
子どもはどこにつまずき,それをどう乗り越えるのか。
②グループの計画,自主的な運営を大枠としながら,授業では系統的な指導が教師から示されるが,それぞれのグループで問題解決を図るやり方。
この場合は,計画-立案-運営-総括の方に重点が置かれる。
③②のように,大枠は子どもたちの自主的な運営ではあるが,系統的な指導はなしで,子どもたちが「速く走る」,「遠くへ跳ぶなど」の問いに仮説を立てて実験して検証するやり方。
④子どもたちがうまくなっていく,あるいは,うまくならない事実をもとに,学習活動そのものを対象として,うまくなる道筋を探していくやり方。
ところが,冬大会では,東京の石井ちゃんが,異質協同を前提とせずに,色々な学習形態を験す中で,異質協同がいいのではないかと迫るやり方を示した。
あるいは,宮城の制野さん(あの制野さん)は,冬大会で次のように発言した。
「グループ学習は社会的統治能力の基礎である。
それはひとりひとりの生存権の保障,意見表明の保証,できない子の存在・悩みを確認する場である」。
これらは,「みんながうまくなる」ということよりも,「ともに学ぶ」という学びの実存の方を優先させた考え方だと思う。
さらにグループ学習の根のようなところから見れば,またいくつかに分類される。
①アメリカのグループ(小集団)的な研究を下敷きにした学習。
体育同志会の初期は,というか新教育,生活教育のグループ学習はこれだ。
②生活綴方を用いた学習であるが,これは,グループ(小集団)とはいえないが,集団を育てる教育方法だ。
一般に,日本で集団を重視したのは,「仲間づくり」を提唱した宮坂哲文を嚆矢とするといわれる。
制野さんや矢部さんは,綴方教育に教科指導を結びつけた。
③「仲間づくり」の緩さを批判して,ソヴィエト教育学の集団主義教育の観点から集団づくりの方法を考える立場。
これは,「班づくり,核づくり,討議づくり」の大西忠治や竹内常一ら全生研や高生研の考え方である。
グループ学習の定式化や段階を明らかにするということは,体育同志会でも試みられているが,それはこの影響だと思う。
これらが混ざった形で現在のグループ学習はある。
だから,ある人のグループ学習は,どんな影響があるのかを見ていくことができるはずだ。
さて,4月号を読んでいない僕は,勝手なグループ学習論を展開してしまいました。
これから読んで,また小出しに自分の考え方を確認し,修正していこうと思います。