体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

佐々木賢太郎記念白浜集会 1日目の1

こんにちは。石田智巳です。

 
土曜日と日曜日は,体育同志会の白浜集会が開催されました。
僕は,そこで話をしました。
そのときの様子です。
でも,まちがいなく一回の記事では収まりそうにありません。
なので,とりあえず頭から書いてみます。
では,どうぞ。
 
久しぶりに白浜に来た。
はじめて白浜に来たときは,2003年の1月だったと思うが,このときも佐々木賢太郎記念集会で,上富田の小学校であった。
そのときは,とにかく暖かいという印象を持ったし,今回もそうだった。
今日(月曜日)は奈良では雪が降って寒さがきつかった。
それからすると,白浜はやはり気候が違うのだろう。
*ちなみに,息子は今日自転車で出かけるときに,僕のスキーのゴーグルを借りていった。
 
さて会場は,「むろべ」というホテルの会議室であった。
白浜で会があるときは,いつも「むろべ」を利用する。
これは,県の教職員が利用すると,かなり安く宿泊できるからだ。
温泉は,ぬるりとしてとてもいい泉質だし,決して大きなお風呂ではないが,中も外もいい雰囲気だ。
 
最初,狭間くんとのやりとりでは,佐々木賢太郎さんの人柄がわかる話を中心にしようと話していたが,よく考えてみれば,実践を紹介することでも人柄はわかるのだ。
だから,エピソード的な話もあるけども,実践から人柄を浮かび上がらせる戦法に出た。
 
それで,実践を語るとなるとやはり『体育の子』(1956)の実践が面白い。
ただ,それだけではなく,1961年までの実践のいくつかを紹介することにした。
『体育の子』実践は,1952年4月からの白浜中学校での実践と1954年と55年の岩田中学校の実践の記録である。
 
なんで,この時期の実践記録が面白いのかというと,丁寧に読んでいくと,佐々木さんの思想形成過程をキチンと読み取ることが出来るのだ。
そして,新版『体育の子』(1971)には,1956年から59年3月までの朝来中学校での実践も載っている。
1959年からは,佐々木さんは「南部(みなべ)中学校」に転勤する。
梅酒や梅干しに使われる「南高梅」とは,南部高校の先生が生徒と一緒に作った梅で,南部高校の梅を省略した名前だ
 
ところで,白浜や朝来のあるところと,南部では郡市が違う。
どういうことかというと,小中学校の先生は,郡内で異動する。
ところが,佐々木さんは郡外の南部中学校に移動したのだ。
なぜか?
 
今ではわかりにくい話かもしれないが,1958年に勤務評定をめぐる闘争があった。
俗にいう,「勤評闘争」というやつだ。
勤評は,早い話が日教組いじめであった。
和歌山県の勤評闘争が熾烈を極めたことは割と知られているが,ここでは触れない。
この1958(昭和33)年というのは,学習指導要領が官報に告知されて,法的拘束性を持つと云われた年で,道徳の特設単元化もなされた。
戦後の民主教育に転換が図られた年であった。
 
勤評闘争では,逮捕者や追放者も出た。
そうでなくても,関わった教員は何らかの報復を受けた。
佐々木さんの場合は,郡外へ飛ばされるという報復人事であった。
これにより,毎日片道1時間半の勤務時間となったと本人はいっていた。
 
この1958年の改訂学習指導要領が,実際にスタートするのは,小学校で1961年から中学校で1962年からだ。
そして,このころに,教科研や日本作文の会の活動方針に変化が起こる。
その変化は,生活綴方の位置を巡る変化である。
そして,文部教研が始まり,それまでの民主教育やその到達点は,一掃されてしまう。
 
佐々木さんの実践は,その当時でも特殊だったのだろうが,体育同志会の実践が行事を中心とした生活体育学校の実践であり,これもまた特殊だった。
でも,戦後すぐの教育実践は,アメリカからの新教育を手がかりにしたり,生活綴方を手がかりにしたりして,自分たちで創り上げるという気概に充ち満ちていたのだ。
 
そして,佐々木さんと体育同志会の瀬畑さんとの論争である,佐々木-瀬畑論争が1960年~61年にかけて起こる(という俗説)のも,この時期のことであり,学習指導要領の影響によるのである。
だから,このあたりの時期を丁寧におさえて,紹介することにしたのだ。
 
でも,一昨日のブログにも書いたように,佐々木実践には『体育の子』の前史も存在する。
佐々木さんは,1948年から白浜中学校に勤務し始めて,1951年に紀南作文教育研究会(紀南作教)に参加するのである。
ちなみに,『体育の子』に出てくる最も旧い記録は,「ひろたかの記録」という話で,これは,紀南作教の機関誌である「紀南教育」の7号と8号に登場する。
「ひろたかの記録」には,4月から6月までの記録が載っている。
つまり,1952年の1学期の記録なのだ。
 
しかし,「紀南教育」6号(1952年9月19日)には,「体育ノート1」という記録が載っているのだ。
これが面白いのだけど,これについてはまたの機会に。
 
とやっていると,いつまでたっても終わらないので,明日は必ず僕の講演の中味を簡単に紹介します。
どうなることやら。
まだ,2日目のことも,それ以外のことでも書きたいことがあるので,なるべく早めに終わらせるようにします。
 
 
 
 
 
 
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