実践記録について4 子安潤「教育実践記録」を読む
こんにちは。石田智巳です。
毎日違うことを書いていますが,今日は,「実践記録について」です。
前回の「実践記録について」は,体育同志会の『兵庫支部ニュース』7.8月号を読みました。
そこで,岨和正さんが,自分の経験や学んだことをベースに,貴重な話をされていました。
今日は少し角度を変えて,次の文章を読んでみたいと思います。
子安潤「教育実践記録」,吉本均責任編集『現代授業研究大事典』(明治図書,1987所収)です。
これは,先日の城丸論文を取り上げたときにも,参照した文章です。
では,どうぞ。
兵庫支部ニュースの報告は,岨さんの実践記録に対する考え方がよくわかる内容であった。
もちろん,直接聞いたわけではないし,そのときにどんなやりとりがあったのかはわからない。
でも,明らかに,岨さんのメッセージは,若手が育つため,支部が活性化するために,実践記録を書こうというものである。
難しい理論を学ぼうといっていない。
実技を学ぼうといっていない。
まず,授業をやること,実践記録を書くこと,といっているのだ。
そこに,もしかしたら理論や実技が位置付くことになるのだろう。
繰り返すが,「授業をやって,実践記録を書くこと」がメッセージなのだ。
さて,今,この原稿は家で書いている。
ここは二畳の書斎であるが,ここには二冊の教育関連の事典が置いてある。
ひとつは,労働旬報社の『〔現代〕教育学事典』であり,もう一つが吉本均さん(通称,吉均さん)の事典である。
労働旬報社の事典の「実践記録」の項は,大田堯(たかし)さんが執筆している。
歴史を中心にして書かれている。
これはこれで面白いが,今日は触れない。
大田さんには,1956年に実践記録論というか実践論が出されている。
これも今後俎上に載せる可能性はある。
吉均さんは,昔の広島大学教育学講座の教授であり,お弟子さんにに著名な方が多い。
特に,子安さん,折出さん,久田さん,船越さんなどは,全生研でも活躍されている人たちだし,体育同志会とも近い人たちだ。
その人たちが執筆している。
ちなみに,吉均さんは1987年3月で退官。
僕は,1987年4月に入学。
子安さんは2007年の体育同志会の中間研究集会に来ていただいた。
そのときは,僕が司会をした。
その前に,子安さんの『反教育』という本を研究局で勉強したことを思い出す。
あれは丁寧に読んだが。
話がそれてしまった。
では,この子安さん執筆の「実践記録」には何が書かれているのか。
「意義」と,「現状と課題」である。
意義についてはここでは触れない。
というのも,岨さんの考え方と研究者の子安さんの考え方の違いを明確にすることが目的ではないからである。
してもよい。
そうすれば,全生研に足をおく子安さんと,体育同志会の岨さんの力点の置き方の違いが見えるかもしれない。
が,その作業は,もう少し多くの実践記録論を検討してからだ。
それで,「現状と課題」を読んだときに,「なるほど」と思わず唸った。
「な,る,ほ,ど」と唸ったわけではないが。
描写が難しいところだ。
要約すると以下の通り。
若い教師が実践記録をまとめることが少なくなったといわれる。
それは,実践を記録する意味や方法,集団的検討による自己変革の体験が薄れてきているということを意味すると考えられる。
その原因は,教師の関係が希薄となっていること,サークルに集わなくなっていること,さらには,すぐに役立つ技術を求める傾向にあること(このことを必ずしも,否定的に捉えているわけではない)。
だから,「若い教師たちに実践記録を発表・分析する機会を保障することが重要な課題となっている」と述べる。
ねっ。
これって,1987年の状況と30年近くたった今の状況と変わらないでしょ。
体育同志会でも,ハウツーを求める傾向を嘆いたり,『たのしい体育・スポーツ』(通称,たのスポ)を「むずスポ」といったりもする。
「むずスポ」は,書き手の問題というよりも,問題意識の違いによると思う。
記録としては必要だが,メディアが違う(例えば,『運動文化研究』に載せるとか)ということか。
自己変革といえば,僕の場合,2000年ごろに,広島の中瀬古さんに誘われて,現代スポーツ研究会という会で発表したときに起こる。
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ボロボロになったが,イニシエーションの機会を得た。
「二度と行くか!」と思ったけど,結構出かけている。
もどろう。
最後に,子安さんは,1987年当時の実践記録にかかわる課題を挙げている。
「実践記録を,報告すること,読むこと,記録を分析することとを区別し,教育実践記録の書き方,読み方,分析方法をさらに明確にしていくことである。
(中略)分析方法としては,実践の目標が具体的で妥当であるか,その目標を実現する手だてはどのようなものであり,その結果はどうであったか,目標と手だては整合しているか,その実践が提起している問題を引き出してくることなどに習熟するとともに,その方法論を明らかにすることである」。
「そうした実践の分析力を教師は,多くの実践記録を読むこと,集団的に実践を分析し合うなかで形成することである。」
体育同志会の場合,運動文化をどう子どもたちにぶつけようとしたのかが重要になる。
ここを抜きに子どもにぶつかると,生活指導になってしまう。
全生研であれば,班づくり・各づくり・討議づくりという明確な方法があるからそれでいいんだけど,体育同志会の方法ではない。
次も重要。
「また,教育学研究にも実践記録の教育学的分析方法を確立していくことが求められている。」
「今後も,教育実践記録が大量に書かれ,分析される必要がある。これなしには,教育学研究の進展は望めないといってよい」。
最後は言い切っている。
教育実践記録は,授業研究のための材料である。
ということは,授業研究には様々な方法があるが,そのひとつの,そして有力な方法なのである。
これは,岨さんの指摘通り。
ところが,この実践記録を書く,読む,分析することは「今後の課題」であると子安さんはいうが,2014年現在の課題でもある。
僕は,この子安さんの文章を読まずして,「今,望まれる実践研究,同志会実践研究」を『たのしい体育・スポーツ』2014年1.2月合併号に書いた。
子安さんの「今後の課題」を,体育同志会の立場で主題化したという形になっているのだ。
これについても,また何処かで触れたいが,なんか,つながって嬉しい。
ところで,子安さんは,「記録の読み方」にかかわって次のように述べる。
「書かれていることのなかに書かれていないことを読む方法論を明らかにすることである」。
そのことは正しい。
「それは,主観的に読むというのではなく,客観的な読み方として明らかにすることである」。
これがわかりにくい。
これが,岨さんのところで書いた「形象化」(勝田)なのだが,またこの問題に当たってしまった。
ここを説明するためには,もう少し先行文献のの研究が必要である。
ただ,僕は違う観点から捉えてみたいと思っているので,もう少し自分自身の課題としたい。