教育実習訪問でつながった話 ルビンの壺
こんにちは。石田智巳です。
今日は,教育実習訪問にいって,いろいろなことがつながった話です。
こんなこともあるのかと驚きました。
うまくまとめられるかどうか不安なのですが,書いてみます。
では,どうぞ。
先週の姫路に続いて,今週の水曜日は大阪の茨木市にある中学校を訪問した。
11時10分にうちの近くの駅に行くので,それまでが勝負だった。
模擬授業の指導案の添削をして,うちの初等課程で決まったこと,決まっていないけどうかがわなくてはいけないことなどをいろいろ整理して,メールを書いて送る。
学会のこともあって,処理しないといけないことがたくさんある。
それから,うちの仕事(皿洗い,洗濯物,掃除)をして,ブログを書き始める。
それが10時。
1時間では書けないので電車の中で書くことに。
今日の目的の中学校までの行き方としては,阪急の茨木市駅から阪急バスとなっていた。
これは学生からの情報だ。
茨木市駅に着いて,阪急バスで目的地を探すがない。
待機中の運転手に聞いてみてもないようだ。
それで仕方なくタクシーで行った。
後でわかったが,阪急ではなく,京阪バスだった。
さて,授業は中1の説明文の成り立ちについてである。
校長室で,学生と指導の先生から簡単な説明を受けた。
説明文は,序論,本論,結論と成り立っていて,それを教科書の内容で説明してから,実際に文章を作らせるという流れ。
序論,本論,結論なんてきくと,まるで研究論文みたいだ。
教室に行って授業が始まる。
中学1年生らしく,子どもとおとなが混在したようなクラス。
教科書を見せてもらってびっくり。
説明文の説明とは,だまし絵のことで,「ちょっと立ち止まって」という単元だったのだ。
教科書には,「ルビンの壺」のように,二人の人が向き合っていると見えるのか,壺に見えるのかという両義性を持つ?絵が3枚あった。
2つの見え方があるから「ちょっと立ち止まって」みよう,1つの見方でいいの?という説明文だったのだ。
本当に,びっくりしたのは,僕はその日,カバンの中に入れておいた本にルビンの壺が書かれたものがあったのだ。
そして,説明文の構造の授業だったのだが,ルビンの壺の話からいろいろな話がつながった。
写真はモーリス・メルロ=ポンティ『行動の構造』(みすず書店,1964)の345頁
持っていたのは,メルロ=ポンティというフランスの現象学者に関わる本。
『たのしい体育・スポ-ツ』6月号が「身体」の問題を取り扱っている。
僕は,師匠の江刺幸政先生が名付けた「運動的認識」という言い方で,体育における認識の問題を実在論ではなく,このメルロ=ポンティの認識論で考えようとしていたことがあるのだ。
だから,身体や身体形成の問題を考えるにあたって,久しぶりにメルロ=ポンティを読んでみようと思ったのだ。
といっても,『行動の構造』とか『知覚の現象学』ではない。
そんな難解な本を電車で読もうと思っていない。
メルロ=ポンティの思想のアウトラインを理解するために書かれた本を持っていた。
そして,実際にそれを読んでいたのだ。
そしたら,なんとルビンの壺ではないか。
おかげで,授業中にいろいろなことが頭を駆け巡り,つながった。
『知覚の現象学』という著作があるように,メルロ=ポンティの関心の1つに,「知覚」の意味付与作用を明らかにすることがあった。
人間の知覚に関しては,ゲシュタルト心理学での説明というか用語がわかりやすい。
私たちが知覚するのは,ある地平の上に図を描き出すということなのである。
机の上にいろいろなものがあっても,携帯電話が鳴れば,携帯電話を知覚する。
そのときに,携帯電話は机の上のいろいろなもののなかから浮き上がり(図化され),他のいろいろなものは背景のようになるということだ。
ルビンの壺では,向かいあう人の顔が図化(知覚)されれば,壺は地平に退く。
逆に,壺が図化(知覚)されれば,人の顔は地平に退く。
ゲシュタルト心理学では,メロディの知覚は,音という要素の組み合わせではなく,メロディというゲシュタルト(形態,形象,かたまり)として知覚されるというたとえは有名だ。
歌と伴奏の関係も,歌を聴けば,伴奏は地平に後退する。
しかし,意図的に伴奏を聴こうと思えば,歌を地平に後退させることもできる。
ゲシュタルト心理学は,ゲシュタルトが世界に実在するというが,それをメルロ=ポンティは批判する。
そうではなくて,人間の認識の側の問題なのだ。
だまし絵はそういう目的で書かれたものであるが,子どもが書いたものが犬にみえるか,牛にみえるかは見る側の問題なのだ。
もちろん,子どもが牛だと言い張ったっていい。
でも,私にとっての意味と子どもの主張に違いがあってもいいのだ。
で,授業で話を聴きながら,あれあれと芋づる式にある観念が浮かんでくる。
ああ,そういうことだったのだ。
メルロ=ポンティは,身体図式という用語を使って人間の認識の仕組みを考える。
ここら辺はややこしいのだが,人間の精神と身体を考えるときに,デカルトはそれらを2つの実体とした。
精神世界と,広がりや延長の世界。
しかし,メルロ=ポンティは,そうではなくて,単純に言えば,身体という地平の上に浮かぶ図として精神をとらえる。
これは,マルクスの影響。
マルクスは,経済という土台となる下部構造の上に,精神活動という上部構造が乗るという構造主義的な見方を示した。
これは個人のというよりも,集団的であり,歴史的な見方である。
それをメルロ=ポンティは,身体という下部構造の上に,精神という上部構造をおいた。
でも考えてみればそうで,私たちがものを見るというときには,ある角度から見ているわけで,一挙にすべてが与えられるわけではない。
いつも身体の向きや大きさとの関係で,パースペクティヴ性をもって私に表れるのだ。
PCの画面の表が見えれば裏は見えない。
同時に全部見ることができるということはない。
現象学の定義は人それぞれかもしれないが,科学が明らかにするような本質が先にあって現象を説明する立場を退ける。
同じく,神の視点のような,一挙に世界が一望できるような立場に立って世界を認識する(ドイツ観念論のような)立場も否定する。
科学の手前にあるいきいきとした知覚の世界こそが現象学の対象になる。
メルロ=ポンティは,私がその都度世界を認識するのではなく,私という人称のもう一つ手前の身体にある身体図式を介して,世界を認識するという。
これは,フロイトの無意識と意識の関係と同じようなことなのだが,メルロ=ポンティは無意識ではなく,身体と意識の関係において,身体図式を想定する。
だから,私が認識するのだが,もっと深いところで身体図式によって私にそのように認識されると考えるのだ。
これは,実は,ソシュール言語学が,ラング(国語)とパロール(言語行為)の関係について語ったことと同じなのだ。
構造主義は,人間や社会の側に「そうさせる」ようなある種の構造があるとしたため,個々のパロールではなくラングを問題にした。
メルロ=ポンティは現象学者だから,いきいきとした知覚,つまりパロールを問題にする。
だから,言語の場合のラング(国語)とパロール(言語行為)の関係を,人間の認識や行動では,身体図式(これを身体のラングのようなもの)と認識や行動(これを身体のパロールのようなもの)の関係でみたということだ。
構造主義の影響だったのだ。
これに気づけた。
そして,ソシュールの含蓄は,ラング(国語)は,パロール(言語行為)を規定するが,しかし,パロール(言語行為)が,ラング(国語)を変化させることもあるといったことだ。
若者が使うような「真逆」とか,カタカナのフィスカルポリシーとかが,日本語の辞書に登録されたりするのはそうなのだ。
だから,僕らの言語実践によって,国語も進化変化する。
これを嘆く人もいるだろうが,変化しない言語では窒息するし,世界の変化を表す言葉が持てなくなるのだ。
メルロ=ポンティを勉強していたときは,この関係はよくわからなかった。
今,なんか,ビビッときた。
もう一つであるが,バルトのテクスト論でもある。
が,ここまでにしておこう。
多分,ここにたどり着いた読者は,5人ぐらいしかいないのではないかと思うので。
教育実習生はどうなった?
一応,続きも書くつもりです。