『たのしい体育・スポーツ』 6月号(№292) 森論考を読む
こんにちは。石田智巳です。
今日は,『たのしい体育・スポーツ』6月号の森敏生論考を読みます。
「運動文化論における身体・身体形成の位置」です。
難しそうな問題です。
いや,本当にどうなることやら。
では,どうぞ。
森敏生さんの論考は,森さんの頭の中がよくわかるような書き方をされる。
内容の問題でもあるが,書き方というか,整理の仕方がよい。
僕は,書くべき内容を羅列するが,書き出してみて,ワープロを打つ手の滑り具合を見ながら書いていき,詰まったらとまるを繰り返す。
羅列された内容をつなぐ論理が見つかるといいのだが,見つからないと手が滑らずに困る。
森さんは違う。
そこに収まるべきコンテンツをまずモーラ的に示す。
それを大見出し、小見出しに分類していく。
そして,過去の議論を丁寧に示し,成果と課題を述べる。
その課題に従って,自分自身の領域を設定して,論を展開する。
まず,過去の議論は好き嫌いはなるべくいわずに,丁寧に紹介し,論点があぶり出される。
そして,最後に展開される「自分自身の領域」というのが,いつも「新しい」のだ。
僕はどちらかというと,自分の領域でなければ,議論の紹介はテキトーだ。
というか,自分の書きたいことが決まればそこに向かって書くだけだから。
今回は,森さんも断っているように,「特殊な運動文化」を紹介しており,それがそのまま体育授業の課題にはならない。
しかし,これは草深さんの教えでもあるのだが,学校体育の領域で議論をする前に,最先端では何をやっているのか,何が議論されているのかを確認するということをキチンとやっているわけだ。
と,ここまで書かれても何のことかわからないだろうから,筋を追いながら書いてみたい。
運動文化論では,身体や身体形成をどう扱ってきたのかが,まず扱われる。
初期には,これは丹下さんの影響だと思われるのだが,身体問題は回避されてきた。
体育と身体というのは,丹下さんにとっては,当然戦争時代に遡るわけである。
城丸章夫さん的には,身体に作用しつつ,服従状態をつくるというのが,身体の位置だったのだ。
支配者の思想を,被支配者に刻み込むため,つまり支配の道具に身体が使われたということだ。
会田雄次さんが『アーロン収容所』のなかで書いていたが,軍隊では将校と兵とは一目で区別がつくのだそうだ。
背の高さや,鍛えられ方が違うから。
軍隊において身体というのは,コノ-テーションとか記号のようなものなのだ。
軍で要求されるのは,一斉にリズムに合わせて動けるような身体であり,苦境で根をあげない身体だ。
仏教における五体投地,修業という意味あいから,体罰・暴力によって精神の服従のために身体へ作用することは,昔からそして今も行われている。
こういうことに敏感であったがために,身体を問題として前景化させたくなかったのだろう。
それよりも,丹下さんはスポーツの楽しさや喜びに着目した。
しかし,体育における身体というのは,それ以外のレベルで語ることも可能だ。
佐々木賢太郎さんの身体への着目は,自分自身で支配する身体であり,それはイコール他人に支配されない身体だったのだ。
コア連でいっしょだった川合章さんに,「身体の尊厳の思想」が運動文化の土台になることを指摘され,制野さんも今月の授業の中で同じことを述べているが,自分のいのちやからだを自分で守るというのが,佐々木さんの考え方だった。
あの当時,佐々木さんが子どもに唄わせていた歌に「若者よ」がある。
これは,体育同志会でも団塊の世代以上だったら知っていると思う。
ぬやまひろしという人の作。
「若者よ。
体を鍛えておけ。
美しい心が逞しいからだにからくも支えられる日がいつかは来る。
その日のために,体を鍛えておけ。
若者よ。」
この歌は,「心が体に支えられる日が来る」ということなのだが、これは「強い体を持っていないと,美しい心を保っていられない」という状況が想定されている。
警察での拷問のようなことだ。
実際にあった。
さて,丹下さん没後も体育同志会では,身体形成の問題を体力作りの問題として捉えていた。
中村さんは,持久走をやっても夏休みが過ぎたら,元に戻ることを例に挙げて,体力作りの無意味さを説いたりもした。
ただ体力をつけるだけでなく,体力をどうつけていくのかへの認識の問題についても語られたりもした。
しかし、森さんは,これでは川合さんのいう「身体の尊厳」という思想には向かっていないと指摘する。
そして,体育同志会における身体形成の理論的課題に向かい合ったものとして,草深論文をあげる。
草深さんの理路は,ざっくりといえば次の通り。
人間は競技スポーツをやる中で、より高度な技術を追求し,その過程で自分の身体をそれが可能なようにある意味加工してきた。
それは,個別の身体の加工であるが,それを目指す人たちによって群の身体の加工となる。
そして,それらの能力を対象化,結晶化したものとして,運動技術という形で蓄積してきた。
運動技術の追求が,より高度になればなるほど,道具(それも技術と言ったりするが)の工夫と同時に、身体の能力(体力であり、技能であり、認知能力である)を発展させてきた。
だから、運動文化に働きかければ、その反作用として,文化に働き返されて,身体形成がなされる。
その意味で、運動文化を自己目的的に追求するということは,身体形成は本質的な次元の問題なのだ。
確かに,柔道家と体操競技の選手、バレーボールの選手では、一般論として体つきも,運動能力も違う。
だから,身体の側面だけをとってみれば,多様なスポーツをやることでバランスの取れた身体を作ることができるとも言える。
少し森さんの問題意識から離れるかもしれないが,本質的次元の問題であるからといって,「体育で身体形成を行う」ことは解決がつくかといえばそう簡単にはいかない。
というのも,逞しい身体,体力などは反対する必要がないのだが,身体の問題を体育授業で取り出して論じるとき,方法の問題で立ち止まらざるをえなくなるのだ。
体力作りを目的とする体育といえば、内容は体力作りをすることになる。
当たり前のことだ。
じゃあ,運動文化を自己目的的に追求する中での身体形成といった場合,そうでない場合と何が変わるのか?
ここで立ち止まるということだ。
ヒントは森論文にあるのだが,ここでは展開しない。
あるいは,運動文化論では,体力をどう考えるのかが問われることにもなる。
少なくともこの問題に関しては,「体力づくりを目的にしない」という変な言い方で回避するしかない。
体力づくりを目的にすれば,ついたかどうかが問われる。
だから,数値で判断せざるをえない。
というか,体力を出すからそうなるのだ。
そうなると,内容は体力づくりになる。
しかし,出さないとなると,「うまくなるそのこと」が身体能力の獲得でいいのだが,それでは訴えかけるものが少ない。
それを「数値化して見せなさい」となると弱い。
じゃあ,どう考えればいいのか。
かつて2007年に体育科教育学会(本年度は来週,横浜国立大学で,来年度は関西の大学か?)という学会で,グループでの教え合い学び合いで,体力をつけることをねらわずに,技能形成をした成果に関わって報告したことがある。
体力(身体能力)をどう考えるのかという議論だった。
また矛盾する言い方だが,要するに体育同志会的な「わかる,できる」体育授業をやったのだ。
やったのは僕じゃないよ。
そしたら,結果的に体力テストの点が明らかに変化した。
特筆すべきは次のこと。
点数の変化が大きかった子どもたちに特徴的だったのは,情意的な目標,単純に言えば,「嫌い」や「あまり好きでない」が,「好き」とか「大好き」とかに変化していたということだ。
ここでの結論は,子どもたちがみんなで関わり合いながら,わかってできる体育を目指せば,楽しく技能が身につくとともに,体力もつく。
だから,体力を前面に出したり,楽しさを前面に出す必要はない。
むしろ,それらを前に出す必要はない。
体育同志会的に体育をやればよい・・・とまでは書いていないけど。
そういうことなのだ。
森さんが例を挙げた内容からずれてしまった。
僕も前に書いたが,森さんの後半に書かれているダイバーの話は共感できる話だったが,ここではこれ以上展開できないので,また機会を見て書きます。