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体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

竹内常一『おとなが子どもと出会うとき 子どもが世界を立ちあげるとき』を読む1

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,竹内常一さんの本『おとなが子どもと出会うとき 子どもが世界を立ちあげるとき』(桜井書店,2003)を読みます。

この本は,竹内さんが,実践記録を分析し批評した本で,とても勉強になります。

確かに,表層の物語における深層の物語というか,深層の構造をうまく取りだしています。

そこから,体育同志会の集団論にもいかせるような気がしたので,書くことにしました。

では,どうぞ。

 

今日は,原稿を書こうと思っていたが,朝から調子が悪い。

この調子が悪いのは,腰の調子が悪いとか,肩こりで調子が悪いのとは違う。

また飲み過ぎて調子が悪いわけでもない。

なんだかダメなのだ。

ちょっと緊張関係におかれていたが,それがなくなってホッとしてしまい,グダッとなっているのかもしれない。

多分そうなのだろう。

 

でも,この1年間は,そういうときにどうすればいいのかがわかるようになってきた。

一番いけないのは,ダメなときに,やらなくてはいけないことを続けようとして,ウンウン唸り,その割にはちっとも捗らず,そして,他にもやることがあるのに,それをもやらず,結局,日が暮れて自分が嫌になるというパターン。

 

僕は,もうずいぶん前のことだけど,うまくいかないときに,PCでできるゲーム(上海とか,マインスイーパとか,カードのゲーム)をず~とやっていて,後悔したことが何度もある。

今は,そういったゲームをしないのだが,とにかくそういうときには,やるべきことを先にやるのだ。

そのやるべきこととは,何でもよいのだが,メールの返事,部屋の掃除,洗濯物の取り入れ,夕飯の買い物などから,授業の準備や校務,もちろん体育同志会の仕事もそうだ。

やることを書き出して,片付けていくのだ。

 

あとは,とにかく本や雑誌を読むようにする。

何でもよくて,読んで何かに引っかかればいいのだ。

だから,僕の部屋にはいろいろな本が置いてある。

同じ本や同じ箇所を何度か読むことも多い。

そのたびに何か発見があるからだ(ない場合も多い)。

 

一番いいのは,本を読んでいて,原稿を書くアイディアが出て来て,原稿が書けるようになること。

でも,そんなラッキー・バルボアにはなかなか出会えない。

次にいいのは,原稿とはあんまり関係がないけど,頭が回転しはじめること。

これはいつもいうように,本を読んである箇所にきたら,本の内容は後景に引いていき,代わりになんだかよくわからないけど,自分の物語が立ちあがりそうになる。

これもチャンスで,こいつは何かと表現してみようとするのだ。

それがこのブログを書くということになる。

 

前はブログに,政治的なネタも書いてみたりもした。

それも大事かもしれないが,僕の政治的な立場を表明するよりも,教育実践や教育理論に関わって自分の頭が回転したときに,それをすくい取ってみる方がよっぽど有益な気がする。

どっちにしても,「僕にとって」だけど。

 

それで,この竹内さんの本を読んでみた。

その前に岩宮恵子『思春期をめぐる冒険』(新潮文庫,2007)も手に取ってみた。

この本は面白いのだが,今日は,あんまり頭が回転してこない。

前に電車で読んだときには,グイグイ来たのだけど,今日は来ない。

 

で,竹内さんの本。

この中の第3章「差異の承認と共通性の追求」を読む。

全生研(全国生活指導研究協議会)の溝部清彦さんという方の実践記録を,竹内さんが読んで分析している。

全体的な説明は避けたいが,ある程度しないといけないね。

 

最初の小見出しが,「一平と丸福とつよし」となっている。

3人の子どもの名前だ。

人の嫌がることをする一平は,母親と二人暮らし。

母親は夜に仕事に行くという。

雨が降ったので,一平が母親に迎えに来てもらいいっしょに帰ったときに書いた「嬉しかった」という詩を担任がみんなに紹介したところ,丸福が共感する感想を寄せる。

 

丸福はとても優しいリーダー的存在,つまり母親的なリーダーである。

そこで,担任は,生活班で一平と丸福をいっしょにする。

それだけではなく,丸福の母親には,一平の母親の子育てのパートナーにして関係をつくろうとする。

丸福にも課題があり,それは,「気を遣いすぎて自分のいいたいことがいえない」ところである。

 

さて,全生研の実践記録ではときどき見られるが,クラスで問題を抱えた子,関われない子をも含めてどういう班づくりをするのかということが描かれる。

そして,班長さんが話しあったり,班の人たちと話しあったりして,その子を班員として迎え入れる(必ずしもウェルカムではないのだが)。

このときに核となる班長さんがときどき一人で背負ってしまって,うまくいかないこともある。

 

しかし,そのときに,その班長さんがそこで本当はそんな役をやるのが嫌だという胸の内を吐露する。

この本音が出ることで,人間関係が動いてうまくいくことがある。

そこにはさらに別の他者の存在が必要となる。

うまくいったから僕の目にとまるわけだが。

 

話をこの実践記録に戻すと,母親的リーダーの丸福と一平をいっしょにしたものの,おそらくそれではうまくいかないだろうと考えた担任は,「スポーツ少年団のリーダーとして丸福とはちがった世界を活きているつよし」に,父親的リーダーをになってもらうことにしたという。

つよしもリーダーではあるが,ときどきムチャをするという課題をもっている。

 

これで,一平と母と関係に丸福の母を入れて三者関係にし,一平,丸福,つよしとの三者関係もつくっている。

三者関係にすることもメリットと,危険性については竹内さんが分析しながら書いている。

二人の関係だと,どうしても親と子のような非対称な関係になり,先述べたように下手をすると親役がしんどい思いをすることになる。

 

そこに第三者をいれることで,「第三者の批評を受けることのなかで,二者が相互に相手の他者性をおかさず,また自己を相手に簡単に譲り渡すことなく,相手の主体性または個性を尊重する相互主体的な関係をつくりだしていくということである」(49頁)。

ちょっとわかりにくいね。

具体的な話を示すとわかるようになるのだが,紙幅の都合は?

 

で,一平がつよしを気に入って,腕をなめるようになった。

そうしたら,丸福が「一平はうまくいえないときに,変なことをするけど,すきな人の腕をなめる」とつよしに伝える。

そして,腕をなめようとしたときに,二人で「それでしあわせなの。それで何が言いたいの」っていったら,一平はなめずに「ニタリと笑った」。

 

一平が班の活動に取り組まないので,丸福が泣いていたところ,担任が「云いたいことを云うことも大切だ」といった。

そしたら,丸福は勇気を出して一平に,「やる気がないなら,班から出て行くように」いった。

丸福も人のよさを超えた。

 

つよしは一平に,「愉快なことをいうし,勉強ができるし,しゃべる言葉が面白い」というと,一平はつよしに「つよしくんは,ムチャをする。うらやましい」という。

すると,つよしは「4年の時に,ムチャをして苦情電話がよくかかってきた。それは一平と同じだ」という。

こうして,差はあるけど,同じようなところもあることが確認されていく。

 

こうして,「三人の子どもは,差異のある相手のユニークさを承認しつつ,相互に主体性とリーダーシップを尊重しあい,発揮しあって,多様な協力関係を発展させている。だから,三人の関係が『保護するものと保護されるもの』『指導するものとされるもの』として固定化されることがない」のである。

 

そして,差異の中でそれぞれの価値を発見することができるということが,実践的な課題になっている。

差異は,ときとしていじめにつながるという難しさをはらむ。

しかし,このような関係は,実はクラスの集団関係の縮図のようになっているのである。

 

最後に一平が金子みすゞの,例の「みんなちがってみんないい」の意味をきちんととらえて,いい詩を書く。

この一平の書くものが良すぎるのが気になるが,自分にないものも含めて個性だということに気づくのである。

 

ちょっと,記録の中味に入りすぎてしまったのであるが,このような関係が体育の授業で,体育同志会の実践記録においても実は見られるのである。

ただ,軽々にこのアナロジーでとらえてはいけないと思うが。

でも,「うまい,下手」という非対称の関係ではなく,第三項になるのは何か,これが「わかる」なんだろうね。

 

その差異をいかに実践的に乗り越えていくのか,相互承認していく関係になるのか,これはしばしば問題になる「集団の質」を考えるヒントになると思うのだが,どうでしょうか。

 

 

 

 

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