『たのしい体育・スポーツ』 5月号(№291) 松崎実践を読む
こんにちは。石田智巳です。
今日は『たのしい体育・スポーツ』2015年5月号の松崎結さんのサッカーの実践を読みます。
とても好感の持てる実践記録でした。
是非,直接読んでみてほしいと思います。
では,どうぞ。
読み応えのある実践記録というのは,そんなに多くない。
それ以前に,実践記録としての体裁をもう少し考えてほしいものもある。
読み応えがあるというのは,実践の善し悪しよりも,記録の書き方と書かれている内容のことを指す。
だから,松崎さんの実践記録は,実践そのものはうまくいっていないが,記録は正直に書かれていてよかった。
うまく書かれているわけでもないが,正直に訴えているのだ。
だから,読み応えがあったというよりかは,実践記録に呼び止められたという感じだ。
非の打ち所のない実践記録というのもある。
読んで,なるほどとか,すごいというようなものだ。
それは,優等生の作文のようなものでもある。
そういう作文は,みんなが「すげー」とか,「へえ」ってなるけど,実はそれで終わり。
穴だらけの作文は,質問がとぶ。
話が展開する。
それと同じだが,僕はこの実践記録を読んで,みんなで検討したいと思ったのだ。
もう少し正確に言えば,みんなで検討している場にいたいと思ったのだ。
二人の女子生徒をどうみるのか?
彼女らはなぜそういう態度を取るのか。
彼らの課題をどう把握して,どう向かい合うのか。
松崎さんはそれらをどう思ったのか?
職場の先生に何を相談したのか?
おそらく,他の先生が自分の担当の生徒を叱ったとしても,自分で何とかしようとしなければよい方向には向かわないだろう。
岩宮恵子さんの「思春期をめぐる冒険」(新潮文庫,2007)のなかには,引きこもってしまった娘を注意しても抵抗されて,そのことで父親(つまり旦那)に相談して叱ってもらうAさんの話がある。
このとき,娘は「人に頼るな!」と反抗した。
このメッセージを岩宮さんは,「自分自身でこちらと向き合って,解決しようとしてほしいという娘の願い」と読みとる。
なるほど。
だから,いうことを聞かない生徒に対して,いうことを聞かせることを目的とするのではなく,思春期の彼女たちの行動や言動を何とみるのか,目指すべきはなんなのかが問われなければならない。
目的-手段の関係でいえば,いつも目的はその上の目的の手段となる。
叱ることが目的ではなく,いうこと聞かせることが目的でもなく,その先に何があるの?
こういった議論ができればよいと考えるのだ。
特効薬はない。
しかし,いろいろな見立てはできると思う。
それに,これを読むと,彼女なりの誰かに届けたい,あるいはすがりたいというメッセージがあるような気がする。
言葉にはできていないが,それはなにか。
それにどう応えたらいいのか。
僕は,サッカー分科会よりも,高校分科会で報告するのがいいと思う。
あるいは,両方で報告して,それぞれが教材のことと,発達のことにしぼって議論してもらうといいと思う。
いつもだったら話の筋を紹介するのだが,ここまで全く紹介しなかった。
少しだけしておきたいと思う。
サッカーをやったことのない松崎さんは,8月のみやぎ大会で学んだことをもとに,じゃまじゃまサッカーをやろうとする。
10月からやることになっていたサッカーの授業を,9月に急にやることになった。
そのため,オリエンテーションをするが,みんなからではないにせよ,「楽しくなかった」という言葉をもらう。
この辺は和歌山の植田真帆の実践を思い起こさせるものだ。
みやぎ大会で学んだ教材を女子高生にぶつけていくが,なかなかうまくいかない。
しかし,この辺は失敗の原因を分析して,工夫を加えていく。
別の先生の授業をみて参考にしたりもする。
そして,じゃまじゃまサッカー。
松崎さんは,みやぎ大会でじゃまゾーンを突破してシュートを決めたという。
それが快感だった。
そこで,苦手意識を持っている生徒にもやれるだろうと思い,じゃまじゃまサッカーからじゃまじゃまパスサッカー(チームにボール一つ)をやろうとする。
しかし,苦手な子からは難易度が上がったことに,経験者からはじゃまゾーンの存在があることで,「生徒の笑顔が徐々に消えていった」という。
いろいろ工夫をしたりするも,なかなか受け入れてもらえず,結局,普通のサッカーで進めることになった。
これも難しいところだ。
まずは普通にサッカーをやってみて,問題が出て来たら,その対案として場面が限定されたじゃまじゃまサッカーをもってくるとかだといいんだけど。
これは,宮城の制野さんのいうところの,競技性を目指すが,カーニバル性を置き忘れてきているというのに近いかも。
「試合は全ていい方向にはいかなかった」。
最も苦労したのは,二人の存在であった。
その二人は,運動能力の低い子をキーパーにしたり,それを含めた味方が失敗すると暴言を吐いたりした。
他の生徒の感想には,「暴言は嫌です」「負けてもいいから楽しくやりたいです」などの訴えが起こる。
そこで,担任や主任に報告をした。
しかし,彼女自身はは叱れなかったのだ。
「でもそれをキッカケに生徒に嫌われるのではないか,授業に出なくなるのではないかと,そればかり気にして叱ることができなかった」。
それが「怖かった」。
その後,いろいろ工夫をしたが,「解決までもっていくことはできなかった」。
そして,最後にまとめがあってこの実践記録は終わる。
この最後のところに,彼女の訴えが出ている。
さて,体育同志会の先生で,こういう思春期の子どもたちとの実践はよくある。
全員がプールサイドで見学した水泳の授業もあったね。
生徒が生徒をほんとにどついたところから始まる中学校のサッカーの実践もあった。
矢部ちえ子さんだったら,「そんなことやっている場合じゃない」というのだろうか。
矢部英さんだったら,「サッカーが悪いんだからね。じゃあどうしようか,どんなサッカーにしたいのか」と投げかけるのだろうか。
この実践は,しかしというか,やはりというか,滋賀のあの人,そう澤さんの「どついたろうか」のサッカー実践に近いのかなと思う。
同じサッカーだし。
あの実践を読んでみてほしいし,澤さんとも話をしてほしいと思う。
でもやはり,高校分科会のメンバーにも最初の方で述べたことを聞いてみてほしい。
これは,繰り返すが,こうすればうまくいくという特効薬を求めろといっているのではない。
そもそも,そう簡単にうまくいくものではない。
子どもをどうみるのか,どういう要求と捉えるのか,切り込むならばどこなのかなど,彼女自身が自分で言葉にできるといいと思うのだ。
お節介かもしれないけど,僕は「うったえ」と読みました。
みなさんも読んでみてください。