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体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

舞踊に関する話2 実践記録の読み解き

実践記録 読書の記録

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は昨日に続いて,舞踊の話を書きます。

舞踊の話といっても,みかぐらがどうの,荒馬がこうの,という話ではありません。

竹内常一さんの実践の読み解き方に納得したので,そのことを書いてみます。

では,どうぞ。

 

3月に福山で研究会があったときに,実践記録の話をしたのだが,そのときに,実践記録論をどう扱うのかという話になった。

その時は,坂元忠芳さんの『教育実践記録論』(あゆみ出版,1980)の話になった。

久保健さんが,実践記録小論を『たのしい体育・スポーツ』(2011年だったと思う)に書かれたときも,勝田守一さん,そして坂元さんの実践記録論がベースにあった。

僕もこの両者の実践記録論を読んだ。

この二人は,教育科学研究会(教科研)だ。

 

違う立場から実践記録論というか,実践記録の分析や読み方を書いているのが,大西忠治さんであり,竹内常一さんである。

全生研,高生研の実践記録論だ。

全生研は,班づくり,核づくり,討議づくりと実践の方向性がはっきりしている。

体育同志会も,系統性研究とグループ学習研究をしているという意味で,方向性がはっきりしている。

 

で,実践記録の読み方も,方法があって,納得させられることが多い。

大西さんは,人の実践記録の書き方の特徴まで指摘する。

そして,行間を読んでいくのがうまい。

また,竹内さんは,表層の記録の下に眠る深層の物語を曝こうとする。

ここら辺は,子ども論がベースとなっているわけだが,その子ども論もまた実践記録を読むことで鍛えられてきたようだ。

 

で,その竹内さんの本『子どもの自分くずし,その後』(太郎次郎社,1998)を読んでいたら,また納得させられた。

「その後」というぐらいだから,「その前」があるわけで,それが東大出版社から1987年に出された本である。

そして,今回読む「その後」には,まさに「“深層の物語”を読みひらく」というサブタイトルがついている。

 

で,このなかに,小学校3年生で踊ろうとしないひろし君が踊った話が載っている。

正確には,ひろし君を指導した野口さんという方が書いた実践記録を,竹内さんが批評した文章がある。

 

話は,運動会で「みかぐら」をやったときに,最初はにこにこやっていたひろし君が,一人ひとり順番に踊ることになった瞬間から踊らなくなったところから始まる。

それで担任が困って,野口さんに相談して,野口さんが指導に当たったのだ。

 

野口さんは,「私の前ではどんな風に踊ってもいい,君の今いるところから出発してあげるから安心していい」というメッセージを送る。

要するに,無理矢理やらなくてもいい,自分がやりたいと思ったときに,やりたいようにやればいいと共感を示したのだ。

そうして,野口さんの前だけで2回踊って,運動会では3年生全員の中で踊ることができた。

 

ここまでは事実の羅列。

それを,野口さんは,できないことをできるようにしたけど,ひろし君の課題に触れたわけではないと書く。

そして,ひろし君の本当の課題とは,「うまくいかないときに,逃げ出して閉じこもるのではなく,うまくいかなくても恐れずにその場にいられるようにすること」だと結論づける。

つまり,指導技術のことではなく,その場にいられるようにすることが教師の課題だという。

 

竹内さんは,その意味では,野口さん以外の教師には,ひろし君が踊ったことで,さらに,野口さんにとっては,「本当の彼の課題がみえた」という意味において,つまり,二重の意味で決着がついているのである。

 

しかし,実践記録には,そのひろし君が,後日のお花見の途中にわけもなく帰ってしまったという話が挿入されている。

ということで,竹内さんは,2つの意味で完結していないとみる。

1つは,ひろし君の問題が実は未解決なまま放置されている。

二つ目は,野口さんの結論が果たして正しかったのか(説得力を持っていたのか)。

とはいえ,実践記録は,起承転結がついておわっている。

 

そこで,竹内さんは,この実践の意味,ひろし君の課題の意味を読み解こうとする。

そして,ひろし君が踊らないのは,踊りたくないとか,踊れないとかではなく,「期待されているように上手に体を動かせないから」とみる。

これは,理性が身体を動かそうとしているけど,うまく動かせないということである。

もう少しいえば,「知性が本能や感情の自発性を抑圧し,精神が身体をしばってしまうことになっている」(77頁)というのだ。

 

少しだけ話を脱線するならば,ハイハイの経験が少ないまま,早くに歩くようになることが必ずしもいいわけではないことや,体育同志会的には,頭でわかることを優先させるあまり,身体が動くことや身体の次元で耕しておきたいことが,なおざりにされるということにつながるような気がする。

戻ろう。

 

精神が身体を縛るということは,さらにいえば,「学校と社会の期待するからだを構築しようとすることにたいして,かれの自前のからだが拒否反応を示したところにあるのかもしれない」。

 

そこから,軽々に結論を出すのではなく,実践を問い直す視点をいくつか提示する。

それは,学校は踊れない子どもをどう考えるのか,なぜ全員が踊らなければならないのか(これは,シニシズムではない)。

踊るとか踊りとはそもそも何か,学校が彼にとって抑圧のシステムになっているのではないか,踊りがもともと持っているカーニバル性を欠落させているのではないか(制野さんみたいだ),などなど。

 

つまり,学校というシステムが,ひろし君をして踊れなくさせているのにかかわらず,学校のシステムが踊ることを強要しているのではないか,ということであろう。

 

もちろん,竹内さんの勝手な解釈とも読めるが,まさにナラティヴが採用する,「大きな物語と小さな物語」,「ドミナント・ストーリーとオールターナティヴ・ストーリ-」という二項対立を思い出させる。

 

新自由主義的な政策によって抑圧された子どもを救い出すためには,新自由主義的政策に対抗できる新たな物語を立てて,そこで生きることができるようにすることなのである。

だから,竹内さんの指摘は,まさに学校が抑圧するシステムなのに,そのシステムに適用させようとすることで失敗が起こるということであり,システムそのものを疑い,システムに対抗できるストーリーを立てる必要性を説いているともいえるのだ。

 

直接社会を変えることはできないし,もしそうやって作られた社会は,どっかの社会みたいに,人々を抑圧することになる。

だから,小さくとも今ここに自分が生きていける場所ができるという意味で,少し変えるぐらいでいいのだ。

体育でみんなが楽しめる教材を考案したからといって,すぐにスポーツが変わるというものではない。

でも,スポーツには(体育でつくられる教材のような)可能性があることは,ある時点でくぐらせておきたい。

 

これって舞踊の話なのかな?

でも,いい話だと思ってここに書いておきました

 

 

 

 

 

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