舞踊に関する話 その1
こんにちは。石田智巳です。
今日は,なぜか舞踊に関する話です。
僕自身は踊るという経験がないし,教えた経験もないのですが,2つの話を読んだので,それを文章にしてみたいと思います。
今日は一つ目の話です。
踊りを教えるということの1つの方法だと思いました。
では,どうぞ。
上に書いたように,僕は踊る経験もほとんど持っていないし,教えたこともない。
舞踊といえば,宮城の制野さんのみかぐらの実践を思い出す。
一昨年の冬大会で報告してくれたように,震災で心に傷を持った子どもに対して,スポーツで迫るのではなく,「みかぐら」を踊らせたのだ。
制野さんの判断のことを,「暗黙知」というのだろう。
普通,ポランニーの「暗黙知」は,「われわれは言葉で語ることができる以上のことを知ることができる」といわれ,言葉の限界のことを言っているように聞こえるがそうではないのだ。
論理的に語れるわけではないのだが,直感的に判断したことが,その後の方向性が見いだせて,そしてその方向は正しかったということのことをいうのだ。
もちろん制野さんの暗黙知については,昨年の中間研究集会で垣間見ることができたのだが,ダンプ園長との邂逅や,その教えに触れたことが大きいのだろう。
しかし,大切なのは,そういう子どもたちの過去と現在と未来をつなぐ文脈において,彼ら,彼女らの必要は何で,それにはどうすればいいのかという直感が働くということだと思う。
そこに,プロ教師のわざが見いだせる。
だから,それは他の教師もみかぐらでなければならないことはない。
スポーツで可能性を見出す人もいるかもしれない。
ただ,宮城の方の別の報告で,みかぐらの持つ力のようなものが語られていたときには,なるほどと思ったりした。
制野さんは,子どもたちに,生きていくという意味をつかませることに腐心していて,教材もみかぐら,じゃれっこ,押し合いへし合いのフットボールなどが選ばれたのだろう。
その文脈から引きはがして,自分の文脈に接合してもあまり意味はない。
さて,日曜日のブログの記事では,小林篤さんの『すぐれた体育の実践記録に学ぶ』(明治図書,1988)の裏表紙の紹介をした。
この本では,いろいろな人の実践が取り上げられている。
亀村五郎さん,佐々木賢太郎さん,高田典衛さん,山本貞美さん,佐藤裕さん,斎藤喜博さんなどと並んで,体育同志会の中村さんや出原さんの名前も出てくる。
「すぐれた実践」ではなく,「すぐれた実践記録」というのは,実践記録を書く人でなければ当たり前だが取り上げられない。
実践記録を書けば,どれでもすぐれているわけではないが。
さて,そのなかに「認識と実践の統一をめざす実践記録」という項があって,そこには,佐藤裕さんの有名な持久走の実践,「体育の理科」などの中村さんら体育同志会の実践があり,「その他の実践」として,出原さんのハンドボールの実践と,田植えラインの実践が載っている。
その次に載っているのが,やや変わり種というか,糸井治子さんという方の「授業って何?」(135-139頁)である。
これは,1981年に報告された実践で,主婦が踊りを教えたという実践の記録である。
彼女の教え方は,最初,「踊りの教え方のほとんどがそうであるように,生徒に背を向け方を示すのを三回くらい繰り返すものであった」。
しかし,「生徒はサッパリ覚えず,覚えてもすぐに忘れてしまう」。
ところが,「動きを理論的に理解させる教え方をとるようにしてからは,事態はすっかり変わった」という。
それはどういうことか?
小林さんは,ここで,「天地の岐呂利(ぎろり)」を教える場面をそのまま引用してくる。
本当は,それを読んだ方がいいのだが,ここでは,要約する。
糸井さんが,舞ってみせるときに,子どもにチョークで黒板に足の動きを描かせるのだそうだ。
右足を白,左足を赤というように。
やりとりはいろいろあるのだが,舞いおわると足裁きのあとが,ある図形になるという。
それはここで書けないので,言葉で表す。
頂点を下にした大き目の正三角形のなかに,その3辺の真ん中の3点を結んだ小さな正三角形が描かれた図。
わかる?
要するに幾何学模様になっているのだ。
だから,糸井さんが間違って踊った場合に,子どもの方から間違いが指摘できるようになる。
ここに,従来のお師匠さん方式を抜け出せる鍵があるのかもしれない。
小林さんは「理論的」といっているが,教材が持つ論理を媒介として,教師と子どもが垂直の関係ではなく,水平の関係におかれている。
これは,異質協同のグループ学習でも応用が利くかもしれない。
「これで,小学生でも,半年後,1年後におなじ曲を舞わせても忘れていることはなくなったし,2,3年後に大曲にすすんでも,“天地の岐呂利”の応用の型に出会うと,『あっ,先生,“天地の岐呂利”の応用ですね!』と気がつくようになった。」
そして,「返法」という左右反対(鏡)の踊りのときは,頭を使わせて,先生は見本を見せない。
これを,「人間だからこういうことができるのよ。どんなに賢くても,猿や犬では反対の動きを頭で考えて,からだで表現することはできないのよ」といい,最後には,「人間でいくか,猿でいくか?」と問うという。
最後に,小林さんはいう。
「主婦の方が,このように『人間の教育』をしているのに,私たちプロの教師が,犬や猿の調教をしていることはないか-しかも,それが教育であると思い込んで-ということを,私はこの糸井の実践記録を読んで,つくづくと考えさせられたのであった」。
80年頃に,「できてわかる」体育がいわれたときに,小林さんは,体育の授業は動物の調教ではなく,わかるという認識活動が必要だといわれた。
しかし,これもまた時代制約といえるだろう。
この場合の動物の調教というのは,悪い譬えだからだ。
うちに,犬のきゅう太くんがきて,2週間以上たった。
犬のしつけというのは,むしろそれが人間の子どもにも通用するものなのだ。
たとえば,「外に出して遊ばせると喜ぶけど,スリッパを加えて持っていこうとしたらすぐに外遊びをやめさせて,オリに入れてしまうとよい」といわれた。
吠えたりしても,無視。
叱ることは必要ない。
いろいろなトレーニングも,ちょっとずつ慣らしていき,できたら褒めてあげる。
えさを食べさせてやるなどがそうだ。
叱ったり,叩いたりすることはない。
人間の子どもとは教え方が違うにしても,「教えること」「わからせる」ことが必要なのだ。
僕も,カッとなって子どもに大声を出したりするが,子どもは萎縮するだけで,そして嵐が去るのを待つだけで何の効果もないようだ。
「わかっちゃいるけどやめられね」というわけですけどね・・・。