体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

『体育科教育』の連載の話2

こんにちは。石田智巳です。

 

先週,『体育科教育』の5月号が届きました。

僕の連載第2回目も載っています。

ぜひ読んでほしいものですね。

この連載のことを中心に書いてみたいと思います。

では,どうぞ。

 

体育科教育』の連載の話 にも書いたことだが,この5月号の原稿は,3月15日締めきりで,その日に提出した。

しかし,「集団検討という言葉が自明になりすぎている」という指摘を受けて,集団検討の方法について膨らませて書くことにした。

そうしたら,膨らみすぎて,他を削らなくてはならなかった。

 

こういうときにパーツの入れ替えで対処しようとすると,全体の流れがすごく悪くなる。

だから,残す部分はあるものの,頭から書き直すぐらいの勢いで書かないと,話の流れが悪い。

自分で読んでも読み進まなくなる。

そのため,本当に書き換えてしまったのだ。

 

おそらく日の目を見ることのない,提出原稿では何を書いていたのか。

今読み返してみても,悪いことが書かれているわけではない。

ただ,「集団検討」をくぐり抜けて,「記録を書き直す」ことはどういうことなのかを中心に説明することに路線変更したために,書こうとしていた中味がそぐわないものになってしまったのだ。

 

書こうとしていたのは,一つはある実践記録を取り上げて,そこからどうやって集団検討が行われるのかを,書いてみたのだ。

一つの例が,宮城の制野俊弘さんの実践記録。

以下に,書いた中味を載せてみる。

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例えば,山本貞美編「体育授業づくりへの挑戦」という実践記録集が刊行されている(山本編,1997)。

今手元にあるそのシリーズの「3」は,宮城保体研,学校体育研究同志会宮城支部の実践記録が載っている。

この「挑戦」シリーズを通して,山本は次の5点を「堅く守って」もらうことにしたという。

 

「1自分たちの実践したことは何であったか,その事実を明確に発表する。2実践は何を手がかりとして進めたか,その根拠も発表する。3実践にはどんな困難が存在したか,またそれをどう切り抜けたか,それを具体的に発表する。4客観的な評価資料を備えた授業モデルであることを発表する。5『「関心・意欲・態度」を育てる』のスローガンにとらわれない,確かな体育実践を発表する。」(2-3頁)

 

もちろん,ここに挙げた例は,山本が大切だと思ったことであり,実践記録をその通りに書かないといけないわけではない。

山本は要求していないが,一般的にいえば,実践の成果としての「子どもの変化」が書かれることは多い。

 

とはいえ,私はここには重要な視点が示されていると思う。

つまり,自分たちがたてた実践の目標,内容,(困難を乗り越える)方法などを軸に,実践の事実を補完する資料を併せて,自分の実践(の結果)をふり返って書くことが要求されている。

そして,これらが視点となることで,集団検討を行うことができるのである。

 

例えばこの中には,制野俊弘の「バトンパスの『不安』の克服を目指して-学級集団づくりと体育の授業-」という実践が載っている。

タイトルからは,学級集団づくりを目標として,リレーのバトンパスの実践を行っていることが読み取れる。

読んでみると,単元前までの,子どもたちの生活(実生活や人間関係)の問題を綴方(作文)によって読み解くことから始まっている。

そして,学級集団づくりをしながら,リレーの実践の中心課題であるバトンパスの学習に焦点を当てて,その学習をくぐり抜けることで学習集団,そして学級集団を組織していくことがねらいとなっている。

 

事前,事後の検討の際には,リレーにかけた教師の思いや願いは何だったのかがまず共有される。

そして,その文脈を保ったまま,どんな先行実践にあたって,どんな学習場面を仕組んだのか,困難だった点はどこにあったのか,どのように克服したのか,実践の事実(タイムの短縮,子どもの感想文)から何を読み取ったのか,それらが妥当だったのか,結果として実践者は,どんな発見や意味の問い直しがあったのか,どんな課題が残ったのか,などが検討の対象になる。

 

そして,その視点をもとに多様な意見の交流(集団検討)によって,実践者も検討者も自分には見えなかったことが見えるようになっていくのである。

見えるというのは,出来事に意味づけをして言葉で表現できるということであり,その意味では共同の物語を立ち上げることでもある。

そのため,集団検討の場面で,どういう物語が立ち上がるのかを研究することもできる。

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制野さんのこの記録のタイトルは,『体育科教育』4月号の特集である「体育から取り組む学級経営」にそのまま使えそうである。

宮城の黒川さんは,矢部英寿さんの実践を取り上げて,この特集でその考え方を整理している。

体育の場合,学級経営とか集団づくりとかいう場合に,体育に固有の内容の学習を絡ませる必要がある。

それがなければ,体育である必要はない。

 

制野さんのこのときの学級経営には,すごいことが書いてあるのだ。

生活綴方を用いて,子どもの様子,子どもたちの人間関係,家庭での生活の様子などの問題を掴み取り,これらの問題を「子育てノート」(これはまた紹介したいが,とりあえず,子どもだけでなく保護者も巻き込んだ日記のようなもの)を使いながら,子どもたちにつながりをつけていく。

 

それと並行して授業が行われるのだ。

「いつも陸上の授業で1年のスタートを切ることにしている」制野さんだったが,この実践記録のクラスでは陸上から入るのをやめたという。

こまかいことは読んで味わってほしいのだが,何とバレーボールから入ったというのだ。

このクラスでは陸上(リレーは総仕上げ)はダメだったというのだ。

制野さんの実践記録は,いつも読ませるものだが,これもすごくよいのだ。

しかし,バレーボールを4月にという発想と見通しがすごい。

 

話を戻して,僕はこの5月号で,実践記録を書くときの視点と,視点をもとにした集団検討について書こうとしたのだった。

もう一つ書こうとしたことは,出原泰明さんの『「みんながうまくなること」を教える体育』という実践記録集に書かれている「実践記録を書く視点」についてだった。

 

体育同志会以外の人は,僕らと同じような視点でなくてよくて,自分が大切だと思う視点や,自分の授業や子どもたちに対する信念を表現するように書けばいいということを書いた。

そうすると,信念と実践の乖離がはっきりする。

それを集団検討で埋めていけばいいわけだからね。

 

ちなみに,4月15日には6月号の原稿を提出したが,これにもダメ出しがあった。

要するに,手に取った読者のことを想定して書いてほしいということだ。

僕としては,こまかく書くことに自分らしさがあると思うのだが,それは読み手には関係がないということだ。

僕の想定する読み手は,やはり同業者になっているという問題だ。

 

ここで書き直しをしていると,年中連載のことになるので,応えられる範囲で補綴しよう。

そして,またこのブログで種明かしをすることにします。

 

 

 

 

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