体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

『体育科教育』の連載の話

こんにちは。石田智巳です。

 

3月の半ばなって,雑誌『体育科教育』4月号が届きました。

雑誌そのものが4月号(新学期号)ということもあって,装いも新たになっています。

僕の連載の第1回目も載っています。

 

毎月,連載原稿を書くというのは大変なことだとつくづく思いました。

今日は,そんなことも含めて思ったことを書きたいと思います。

いわば,舞台裏ですね。

では,どうぞ。

 

『体育科教育』4月号には,僕の連載の第1回「連載を始めるにあたって」が載っている。

この連載は,12月の下旬に入る頃に編集の川口さんに提案されたのであった。

そのときは,本文にも書いたが,「僕じゃないでしょ」と思ったのだ。

だって,連載のタイトルが,「体育の授業研究のこれまでとこれから」だったから。

 

僕は自分では「授業研究」をやっているつもりはなかった。

佐々木賢太郎研究は,授業研究のうちの歴史的アプローチという。

感想文の読み方についてもやってみたこともあるが,僕の中では,授業研究という体系だった研究をやっているつもりはなかったので,あの人や,あの人にお願いしたらいいのでは?という逆提案もしたのだった。

そうしたら,あの人はすでにやっているし,別のあの人たちにお願いするとその色が強く出てしまうというような返答だった(わかりにくい言い方ですみません)。

 

で,細かないきさつは省略するが,第三者的な立場から実践記録を中心にして書くということで,僕は引き受けることにした。

だから,4月号を見てもらえばわかるのだが,連載の計画は,具体的な実践記録の中味についてというよりも,授業研究としての実践記録の位置,そしてその推移消長,これからの可能性について書くつもりでいた。

ここだけの話だが,実践記録論の展開というよりも,実践記録を鏡にして授業研究の歴史と今後を見ていくつもりでいた。

落としどころはまだ見つかっていなかったのだ。

今もまだ見つかっていないのだが。

 

それで,2月半ばに4月号の原稿を書いて提出した。

これは,挨拶のような原稿だった。

その後,3月に福山での研究会で今悩んでいるところについて話したが,このときに気づいたのが,ターゲットを誰にしているのかという大問題だった。

①現場の先生と,②大学の先生,そして③体育同志会の先生のうちの誰?

もちろん,①を中心として,あと②でしょ,となる。

③だったら,媒体が違うから。

 

そうなると,もっと実践記録を書くとか,それによる授業研究のこととかが書かれないといけないのだ。

だから,最初,理論編と実践編とかにして考えてもいたが,それをするにしても,連載が僕だけ15回でというわけには難しいし,24回はとても無理だし。

 

でも,そうこうしているうちに,5月号の原稿の提出の時期となり,提出した。

ここで,僕は編集の川口さんから,びっくりすることを告げられた。

いわく,「『集団検討』という言葉の扱いが,『知っていて当然』といった感じで使用されています。しかし,この集団検討は、同志会独自の方法ではないでしょうか」。

 

えっ,そうなの?

それは知らなかった。

僕は組合教研にも出たりしているし,実践記録を集団で検討するのは当たり前だと思っていた。

それは,全生研でもやっているだろうし,おそらく日生連でも,日作(作文の会)でもやっていることではないのかなと思ったのだ。

 

戦後の教研は1951年に始まる。

「教え子を戦争に送るな!」

これは実証していないが,そのころは教科研(教育科学研究会)とか,日作(日本作文の会,旧日本綴方の会)とかが引っ張っていたのだとしたら,当然,実践記録をレポートとして書いてそれを支部,そして全国へと持っていくことになる。

そのたびに記録を書き直すということは,その時からされていたのだと思う。

それを当たり前だと思っていた。

ちなみに,体育同志会はその流れではないが,実践記録は1960年からだ。

 

だから,まさに文化人類学の対象のように,体育科教育学の片隅でひっそりと独自の文化を保っていたというわけだ。

やっている自分が,それが民族誌的な奇習だということに気づいていなかった。

 

そこで,5月号の原稿を送って,次の日にその返事が来てから,考え込んでしまった。

だから,その日(金曜日)は夜に10キロ走りながら,ランニングハイが来ると同時に(というのは大げさだが),走りながら構想を練ること1時間。

まとまってきたので,シャワーを浴びて,PCに向かって内容変更をしたのだった。

しかし,書き始めてみると,パッチワークのようにはいかない。

 

ここが説明が難しく,でもわかる人にはわかると思うのだが,自分が書いた文章って,なかなか途中途中に新しい話を挿入したり,位置を入れ替えるのって難しいのだ。

やはり,上から書いていくから,書いていくうちにリズムを獲得して,まさに物語を作ることができる。

でも,途中でいれると,あっちこっちにくどさや,リズムの悪い部分が出てくるのだ。

僕はもともとリズムのいい文章は書けないが。

 

最初に書いた部分の後半に,具体的な実践記録に書かれた中味のことを書いた。

ところが,それをしたら,当然その分だけもともと書いた中味を削除しないといけない。

そうやって書いてみて読んだら,やはりバラバラしていて,まさにストーリー性に乏しいものができあがった。

全体が,大きく3つの話になっていて,最後の部分を変えたのだが,そうしたら,その前の部分とのつながりが悪くなってしまった。

 

そこで,その2番目の部分もばっさり削除して,新たな文章を立ち上げて,それに「はじめに」と「終わりに」で文字数などを調整した。

それが土曜日の朝。

そして,東京へ出かけて,帰ってきた日曜日に推敲して,月曜日にもう一度見て再提出。

そうしたら,合格が出ました。

 

ということで,4月号に予告した内容と全く違うものができました。

でも,実践記録を書き直すということも,これと一緒で,他者の目が入ることで「独りよがり」から脱することができるというわけです。

という意味ではよかったです。

 

5月号が出たら,何をどう変えたのかについても語ってみたいと思います。

でないと,せっかく書いた文章がかわいそうですから。

いやいや,可哀想なのは文章ではなくて,ぼくの努力の方です。

 

それにしても,連載は大変です。

別に用意していたネタを,ここで使ってしまったら,そのネタの分を別に埋めないといけないし・・・。

 

 

 

 

 

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