体育と実践記録7 よい体育授業研究の系譜について
こんにちは。石田智巳です。
今日は「実践記録」の続きです。
体育における実践記録の位置づけについて,書いてみたいと思います。
その前に,話の展開上,「よい体育の授業」の構想と展開について書きます。
では,どうぞ。
体育で授業研究と云えば,みなさんそれなりにやっている。
体育同志会でも,授業研究はやっている。
しかし,今の体育同志会のやり方(一般的なイメージ)とかつてのやり方はおそらく違う。
よその人たちの研究のやり方も違うだろう。
体育における授業研究や授業分析を研究として手がけてきた一人に,小林篤さんがいる。
小林さんの仕事は,授業研究そのものもだけど,授業研究の研究,つまりメタ授業研究である。
小林さんは,1978年に『体育の授業研究』という著書を上梓し,その後,1983年に『体育の授業分析』という本を著している(ともに大修館書店)。
その前にも後にも著作はある。
『体育の授業分析』のカバーには,次のように書かれている。
「少しでもよい授業を実現するためには,すぐれた実践者の体育授業を記録・分析し,問題点を剔出し,よい授業の法則性をさぐることである。」
斎藤喜博研究者でもあった小林さんは,テープレコーダーを片手に斎藤さんの授業を見に行き,データを起こして分析したという。
つまり,斎藤さんの授業こそ,小林さんにとってのすぐれた授業だったのだろう。
小林さんにとってだけではないが。
さらに,すぐれた授業を分析する理由について述べている。
「長年にわたってすぐれた授業実践を積み上げてきた実践者の授業には,みな,授業はどのようなものでなければならないということについての実践者の主義・主張が明確に浮き彫りになっている。
自分の主義・主張(フィロソフィー)を授業(ストーリー)に具現化できると云うことが,すぐれた実践者の力なのである」(48頁)。
冒頭で,斎藤さんの授業がテープ起こしされて再現される。
そして,授業記録を見て,「きれいだ」が12回,「いいね」10回と褒め言葉が多いという印象を語る。
そこから,「『きれいだ』という褒め言葉の内容を吟味していくことが斎藤の体育授業を分析する核心であることがわかる」(13頁)という。
また,褒めるだけではなく,「しかる場面もまた少なくない」のである。
斎藤さんの授業記録を読んだことのある人なら,クラスでもっとも得意とする子どもが勢いよく跳んだときに,「汚い」「ダメ」というまさに「だめ出し」をしていることを知っているだろう。
さらに,斎藤さんの場合,「きれい」の中味として,リズムと流れが大切にされていることが,授業記録から読み取れるという。
このリズムと流れというのは,マイネル運動学における8つのカテゴリーにも入っており,昨年の神戸での中間研究集会で,岡山の阪田さんもそのことに言及していた。
そして,小林さんは,斎藤さんの授業記録から,「合理+リズム=流れ+内容(こころ)=美しい動き」という図式を描く(20頁)。
斎藤さんの授業を云々するのが目的ではないので,ここら辺でやめる。
小林さんは,体育授業のなかに潜むすぐれた授業の法則性のようなものをまさに剔出(てきしゅつ)し,それを一般化するという教授学を創り上げる構想を持っていたのだろう。
これは,小林さん一人が考えていたわけではなく,当時の多くの人たちが考えていたことである。
それを,メッタ打ちにしたのが佐藤学さんだった。
体育で,よい授業の研究系譜といえば,非常に一般的な云い方をすれば以下の通りである。
高田典衛さんの「よい体育授業の四原則」が出てくる。
この原則は「子どもが喜ぶ体育授業」のことである。
- せいいっぱい運動させてくれた授業
- ワザや力を伸ばしてくれた授業
- 友人と仲よく学習させてくれた授業
- 何かを新しく発見させてくれた授業
これは,教育大附属小学校から筑波大学に転出した高田さんの経験則から出てきた四原則である(ちなみに,これを「高田四原則」と云ったのは中村敏雄さん)。
これを小林さんが実際に授業評価を作成し,それを学問的な体裁に仕上げ,さらにそれにさらに評価項目を増やして9項目からなる「形成的授業評価」を作成したのが高橋健夫さんである。
こうして,「よい体育授業」像ができあがるのが1990年代初頭のこと。
佐藤学さんがそういった構想をメッタ打ちにしたのが1992年のこと。
繰り返すならば,なんの背景をもたない教師と名もない子どもが透明な空間でやりとりする授業を分析して,授業の科学的理論の構築,合法則性の追求,合理的技術の体系化と授業への適用を目指すこと,そして,外から分析してこと足れりとするその研究者の態度に対して異を唱えるのだ(佐藤「『パンドラの箱』を開く=『授業研究』批判」,1992)。
もう少し違う云い方をすれば,教師には,その日の授業のねらいや重点的な目標があって,あるいは気になる子どもがいたりして,その思い描いていることを実践したら,「君の授業は,運動量が少ない」「君の授業は,教師の教授行為がない」とか云われるようなことだ。
中村敏雄さんも,授業のデータをとるために,ゲーム中に屋上だったか上の階の空き教室に行っていたら,「そんなの授業じゃない」と批判されたという。
また,僕の好きな話であるが,星野実さんが『たのしい体育・スポーツ』2005年12月号に書かれている話を紹介しよう。
星野さんは,フラッグフットボールの授業をやることになったが,やったことも見たこともない。
それで,こっそり中村さんの学校に侵入して,高校生の授業を見ていた。
その間,中村さんはずっとテントか何かを干す作業をしていたという。
これは,生徒が自主的に動いていたということを書いていたわけだが,その授業は高橋さんの「体育授業観察者チェックリスト」で云えば,最低点がつくだろう。
「先生は,ほめたり励ましたりする活動を積極的に行っていた」×
「先生は心をこめて生徒にかかわっていた」×
「先生は,適切な助言を積極的に与えていた」×
高橋さんたちが,研究成果を発表したころ=佐藤さんが批判したころから,同時に教室で生成される意味を内側から捉えようとする研究も起こってくる。
口野隆史さんは,「オートポイエーシス理論」なるものから授業研究を捉え直そうとしていた。
あまりよくわからなかったが。
いずれにしても,90年代になると,認知科学もまた問い直しが迫られる。
フラクタルだとか,フレーム理論(による批判)だとかが出てくるのだ。
「入力―出力」という単純な図式では説明がつかないことだらけだ。
小林さんの著作は,1970年代から80年代の教授学構想とともに出てくる。
そのため,今という時代から見れば,「古い」とか云われるかもしれない。
しかし,僕はこれが出てくるから,批判も出て来ると考えたいし,後代的な視点から古さを訴えるのはあまり生産的ではないと思う。
というのも,その後出てくる質的な研究などは,「こんなにやらないといけないの?」というものであることも少なくないのだ。
理論や言葉も複雑。
認識論における主観-客観図式を乗り越えようとしたフッサール現象学が,還元,ノエシス-ノエマ構造,一般定立など難解な言葉や言い回しで,ちっとも理解されなかったようなことと同じだ。
だから,そういう批判もあるけど,使えることはやってみようでいいではないかなんて思ってしまうのだ。
もちろん,教師のねらいや願いが達成されたかどうかが重要になると思うのだけどね。
ということで,また今日も実践記録が出て来ませんでした。
次回は,小林さんの授業研究や,分析の方法のなかに占める「実践記録の位置」について書きます。