体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

『たのしい体育・スポーツ』9月号-実践のひろばを読む

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,『たのしい体育・スポーツ』9月号を読みます。

読むのは,以下の文章です。

 

植田真帆「『ヤンキーにからまれたら,背負い投げでやっつける!?』柔道授業でいいのか」,18-20頁

 

学校でなぜ柔道(武道)をやるのか?という大きな問いですね。

では,どうぞ。

 

「彼女の書く文章はなかなか説得力がある」とは,9月号を最初に手に取ったときに思ったことで,一昨日のブログにも書いた。

彼女の書いた文章から得られた授業の着想は多い。

ひとつは,「たのスポ」2009年1月号でも触れているので,そのままもってこよう。

 

「さて,和歌山の植田真帆は今回のオリンピック(北京五輪-石田)の結果に対して『嘉納治五郎は喜んでいるのではないか』という興味深い話をした。嘉納は柔道の国際化を願っていたわけであるが,今回のオリンピックでは様々な国の選手がメダルを手にすることになったのだ。勝敗だけを見ても,文化の混交は日本文化を相対化し,いいところも悪いところも映し出す鏡になるだろう」(石田,15頁)。

 

さらに,2014年4月号で彼女は,柔道の各国での発展の仕方を概観する。

嘉納治五郎が日本古来の柔術諸流派の技術を再編し,近代的に再構築したように,諸外国においても,日本が輸出した柔道の技術とそれぞれの国が古来から受け継いでいる民族格闘技(ロシアのサンボや韓国のシルム等)の技術を取り入れ,再編しながら,次々と新しい技術が生まれているのである。」(15頁)。

 

そして,ニッポン柔道が負けると「あれは日本の柔道じゃない」と嘆く面々に向かって,次のように云う。

「『知らないもの』『異質なもの』を認めないというニッポン柔道の閉鎖的な体質は,何も寝技の技術に限ったことではない。昨今のニッポン柔道界における度重なる不祥事とその対応を見ても明らかではないか」(15頁)。

 

これは,摘み食いではなく,キチンと読んでほしい文章である。

 

あと,2011年の東京大会のときに,中高の分科会がコラボした。

そのときに,彼女がフランスの「教育としての柔道」の映像を見せてくれた(後に送ってくれた)。

あわせて日本の小学校3年生の試合の様子も,比較のために見せてくれた。

 

もう全く違う。

フランスの子どもは,まず組んで技をかける。

だから試合の展開が早い。

しかし日本の子どもは,まず組まない。

組み手争いをする。

 

早い話が,日本では,大人の柔道を子どもがやっているのだ。

やっている3年生は丸刈りで,すでにお○さんの風格すらある。

なるほど,柔道は日本の「伝統的な」運動文化だとすれば,柔道のわざと同時に雰囲気も身につけていくことになる。

 

そして,彼女は云った。

「小さいときから道場でこんな柔道をやってきて,でもオリンピックには出れないし,出たとしても勝てるわけでもない」。

 

2012年のロンドンオリンピックでは,日本は男女で7つのメダル。

そのうち,金メダルが一つ。

フランスも7つのメダル。

金メダルが二つ。

「子どものころにやるなら,どっちの柔道がいいか?」

 

ずっと書いていたら,「たのスポ」の今月号の内容とは違うことを書いていた。

いつものことだが。

戻ろう。

 

武道の種目というのは,学校体育で唯一相手の身体に作用する(投げる,打つ,絞める)教材である(ラグビーのタックルとかもあるが)。

なお,学習指導要領には柔道,剣道とならんで,すもうも位置付いているが,すもうの話はほとんど聞いたことがない。

が,話がまた脱線しそうなので,やめておく。

 

スポーツは暴力そのものだった時代から,ルールを調えて暴力を抑制してきた。

とはいえ,日常生活ではまず行わない,思いっきり走る,投げる,蹴るなどをうちに含んでいる。

だから,ルールによって暴力を飼い慣らしているといえる(これは,菊さんの云い方だったような・・・)。

 

それを真帆は,大外刈りの近代化に見る。

そして,授業では危険をうちに含んだ技だからこそ,教える必要があるという。

さらに,一昨日のブログでも書いたこととかかわって,危険だからやらないとなれば,柔道は危険だからやらないと「なってしまわないか?」と修辞疑問形で問う。

それがひいては,体育は危険となってやらない方がいいとなることにもなる。

 

しかし,ここが難しいところだ。

いくら暴力を抑制しているからと云って,やはり相手を投げるのだ。

ここに矛盾がある。

 

関節技や絞め技を学校ではやらないと云っても,実際の競技では行われる。

『柔道部物語』では,秋山が西野に反則スレスレの脇固めで,骨折させられたのだ。

これは論外であるにしても,「だからこそ,子どもたちに柔道を通じて何を教えるのか,どういった指導計画,指導内容,指導方法が適しているのか,指導者同士が工夫して研究・協議し続ける必要がある」のだ。

 

そして,彼女自身の反省として,「相手を傷つけない」指導への配慮が欠けていたという。

投げ方と同時に,投げられ方,相手を傷つけない投げ方も指導するべきだったという。

これも実は矛盾である。

投げておきながら,傷つけることが目的ではない。

 

しかし,ここは決定的に重要であるように思う。

武道は矛盾に充ち満ちているのである。

 

武道を必修化しろというのは,右の云い方。

ちなみに,右というのは,立命館松尾匡(まつおただす)さんによれば,世の中に縦に線を入れて,内向きな人のことを云うそうだ。なお,外向きな人が左ではない。

左は,世の中に横に線を入れて下の味方をする人のことだ(『新しい左翼入門』,講談社現代新書,2012)。

 

もともと,「我が国の伝統文化」といいながら,明治時代の教育政策は,日本の伝統的な動き方を破壊することからはじまった。

それは,「ナンバから行進へ」に現れている。

それで,今になって伝統的な運動文化をやれという。

それも矛盾。

 

また,これは出典は今わからないけど,内田樹さんがどこかで書いていた。

つまり,武道をやる目的は「天下に敵なし」の身体を作るためだという。

内田さんがたどり着いた考え方だ。

 

ただし,この場合の「無敵」は,勝負をして勝ち続けるという意味ではない。

誰とも戦わなくてもよいように,身体の感度を上げるということだ。

危険がありそうだと身体が感知したら,無意識のレベルで違う道を通るだとか,外に出るのをやめるだとかという話だ。

 

だから,この場合の敵とは「私の心身のパフォーマンスを低下させる要素」となるのだ(内田『修業論』光文社新書,2013,38頁)。

この身体の感度を上げるために,武道(内田さんは合気道)をやるのだそうだ。

そして,そこに相手が必要になる。

しかし,相手を倒すことではなくて,自分の身体的感度を上げるために,相手が必要になるのだ。

合気道は,相手を倒すためにやるわけではないが,倒す(?)相手が必要である。

 

天下に敵なしとなるためには,誰とも勝負しなくてもいい感度のいい身体を手に入れることである。

これも矛盾。

 

実は「精力善用」「自他共栄」もこの文脈で読めば,よくわかるのだが,勝手な解釈はゆるされないか?

 

ところで,武術がもともと相手を殺傷する技術だったとしても,相手を殺傷できない平和な時代(江戸時代)になぜ行われていたのか。

それを考えると,やはり矛盾だらけである。

でも,これについても内田さんの云い方だとすっきり落ちる。

 

なお,剣道も相手を切るといっておきながら,竹刀の技術は相手を打つことだと,長野の小山さんに教わった。

これも矛盾といえる。

 

いずれにせよ,「武道が矛盾に充ち満ちていること」を教えることができれば,成功なのではないか。

 

ということで,ヤンキーをやっつけるために背負い投げをやるわけではないのだ。

武道をやることで,ヤンキーにからまれないように身体の感度を上げるのだ。

 

ところで,ヤンキーをアメリカンとするならば,それをやっつけるオリンピック選手はやはり武道家ではないのだろう。

 

 

 

 

 

 

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