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体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

愛知で話したこと5 これで終わり

こんにちは。石田智巳です。

 

ヴィゴツキーを援用して,運動学習において言葉が必要なこと,他者が必要なことを延々と話してきましたが,ようやくこれで終わることができます。

学会発表の抄録締め切りが23日なので,こんなことやっている場合ではないのですが,こんな機会だからこそこんなことをやるわけです。

ということで,今日で終わりです。

では,どうぞ。

 

昨日の話から整理する方向へ持って行きたい。

授業では,教師によって教えたい内容(運動のやり方)に関わる言葉が,子どもたちに投げかけられる。

そして,同時に,探求すべき課題が投げかけられるとよい。

探求すべき課題がわからない場合は,探求すべき課題を探求することになる。

 

それをもとに子どもたちは,実際にやってみて,自分がどうなっているのかを外側から友達に伝えてもらったり(これも言葉),やってみて感じたことを言葉にしてみる。

その言葉は,それぞれが持っている「意味」となって表れる。

それを交流してみると,自分にはない表現の仕方があるかもしれない。

というか,たいていある。

 

その違いへの気づかせ方は,子どもたちに任せてもいいし,特徴的な記述を教師が取り上げてクラスのみんなに投げかけてもいい。

その新しい表現を学ぶことが,世界に切れ目を入れる=世界を分節する新たな道具を手に入れるということだ。

ここには探求が必要になる。

でないと,言葉遊びに終わる可能性がある。

一般的に言っても,すぐれた授業にはすぐれた発問があり,子どもが動き始める。

 

他者の言葉によって,ヒントを得ることがあるだろうし(ないかもしれないが),子どもの内言の体系が変化する可能性もある。

そうやって,子どもたちが言葉で動作に切れ目を入れて,分節していく。

おそらく,クラスやグループで言葉が流通することで,一定の方向に収斂されていく(と思われる)。

 

そうして,クラスで流通する言葉ができれば,教師にとってみれば,それが次の実践において,新たに子どもたちに投げかける言葉になる。

子どもにとっては,別の運動を言葉にするときの手がかりとなる。

ネコちゃん体操の「ふー」や「ニャーオン」の動きというように。

 

ただし,ここで注意が必要なのは,概念の「意味」に見られるように,言葉はあくまでも子どもによって構成されるのであって,絶対的な正解の言葉があってそこにたどり着こうとするのではない。

多様な表現があることが大切なのだ。

ここら辺は,テクスト論における書き手と読み手の関係がわかりやすいが,前提を理解するまでは,ますます難しくしてしまうから,ヴィゴツキーの「意味」を確認するにとどめておく。

 

ここまで来るとわかるかもしれないが,そしてこれが重要なのだが,「教育が行うのは,新しい言葉(や記号)の使い方を覚えることであり,身体運動を中心とする教科である体育もまた,身体運動にかかわる新しい言葉の使い方を覚えること」になるのである。

 

教師と子どものズレだけではない。

元々ズレているんだから。

そうではなくて,他者との違いから自分にない言葉遣いを学ぶと言うこと。

 

話は前後するが,話し終わった後に,疑問が出された。

そんなに言葉にできるのかどうか?

発達の問題はどうなのか?

それについては,そんなに言葉にはできないだろうねとしか答えられない。

が,子どもたちなりに何とか言葉にしようとしているし,感想文を書かせるのはそのためである。

 

そして,ヴィゴツキーの眼目は,教授が発達に先回りして発達を引き上げるということだった。

だから,子どもたちの言葉を豊かにできるようにするのが教育であって,それは体育のみならず他教科でも同じ。

今はまだできないけど,みんなで探求しながら言葉を探すのだ。

そして,絶対に必要なのが,教師による動き(やり方)の言葉化。

全部を言葉に表す必要はないが,ここら辺は具体を示さないので隔靴掻痒な感もある。

 

一つだけ具体例を出せば,教えたい中味が,バスケットボールの場合,パス&ランなのか,ボールを持っていない人がゴール下に走り込んでパスを受けてシュート(パスワークプレー)なのか,ドリブル突破なのか,これらがはっきり示されないと,子どもたちはめいめい違うやり方を考えてしまうことになる。

これでは,交流できなくなる。

だから,言葉にするということは,ボール運動の場合,教師が教えたいやり方そのものである。

 

そして,子どもたちはそれをうまくやるにはどうしたらいいのか,を考える=探求することになる。

ここでどこまで教えるのかは,学年,単元に取れる時間的大きさなどによって異なるだろう。

 

話の終わりに、二つの実践の感想文の違いから,体育同志会の系統が「できる」系統になっているけど,必ずしも「わかる」系統になっていないので,そこを意識することが必要になること,さらに(そのために),一つ一つのスモールステップと目指す全体像(ウサギの足うちと側転,2対0とゲーム)の関係をつけることとその付け方の話をした。

 

なるほど,確かに多岐にわたって話をしたため,難解だったかもしれない。

先日も書いたが,話を聞いて終わりにはしてほしくないところ。

それが実践にどう反映されるのだろうか,ここはどうなのか,が後から「ああでもない」「こうでもない」と話されることで,他者の解釈や考えをもとに内化されていくのだ。

これがヴィゴツキーの理論であり,アクティブ・ラーニングなのだから。

 

ということで,5日間お疲れさまでした。

 

 

 

 

 

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