体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

理論は誰が作るのか

こんにちは。石田智巳です。

 

金曜日の毎日新聞の社説は「中教審の宿題 転換を空転させぬため」です。

何でこの日の新聞に書かれているのかは不思議なのですが,これを読んで考えたことを書いてみます。

では,どうぞ。

 

金曜日から東京に来ている。

まず学会誌の編集委員会に出て,それから池袋で新日本スポーツ連盟スポーツ科学研究所の集まり。

土曜日は午前中が池袋で,午後が日本青年館に移動してシンポジウム。

それが終わると,名古屋に移動。

日曜日は,中村敏雄シンポジウムだ。

 

さて,毎日新聞の社説である。

次の指導要領の作成に向けて,中央教育審議会(中教審)が議論をしているのだが,そのことに対して,毎日新聞が軽く文句をつけている。

 

要するに,改革を上意下達で進めようとすればするほど,現場との乖離が起こることを危惧しているのだ。

だから,日々子どもたちと向き合っている「学校の現実に根ざした意見を十分反映させる必要がある」というわけだ。

それは,その通り。

しかし,どうやって反映させるのか,仕組みをどう作るのかの具体案が必要だ。

 

かつて,丸山さんがドイツのウェストファーレン州のカリキュラム作成のための議論の仕方について,学会で報告していた。

ウェストファリア条約のあのウェストファーレン州だ。


細かいことは忘れたが,なかなかうまい方法だった。

体育だったら体育で,考え方の違ういくつかの体育論を唱える人たちが,それぞれ登壇して自分の考えを報告する。

選挙前のマニフェストか,立候補者の意見表明のようなものだ。

 

それを聞いて決めるのは住民だそうだ。

たぶん,そんな簡単なことではなく,何らかのさらなる仕組みがあると思うのだが。

で,もう一ついいと思ったのは,選ばれた人が暴走しないように,次点の人も指導要領(?)の作成に加わるというものだ。

 

日本では,政府の意向をくんだ委員が選ばれるか,選ばれた委員は政府の意向に従って作成することになる。

嫌だったら,「換えはいくらでもいる」といわれて,部品交換をされる。

そして,あらかじめ新しい指導要領の方向が決まっている。

国民,市民はそっちのけ。

 

城丸章夫さんは,かつて「やさしい教育学」だったかで,そういう議論について,様々な職種や様々な階層の人がいるのだから,それらの代表を選んで議論するべきだということをいっていた。

現実には難しいと思うが,それも一つの提案だ。

 

僕は,この手の議論で一番うんざりするのが,「これからの社会」という,まさにこれからくる社会はこうだから,教育はこうあるべきだ,という議論。

次の指導要領も,「21世紀型能力」というのが取り入れられる。

思考力を中心として,基礎力と実践力が位置づく。

そこにアクティブ・ラーニングだとか,反転授業だとかが方法として入ってくる。

これについては前にも書いたとおり。

 

でもね,「これからの社会論」はうまくいかない。

その理由は,未来の社会が明るくて,現実と未来の差が見えなくなっていることがまずある。

それと今を背負っている先生たちはどうなるの?


90年ぐらいからの指導要領は,子ども中心主義になり,指導ではなく支援,どの子も意欲があるとかだったが,結局,新自由主義社会に適応して,二極格差を生み出し,子どもの自己責任となった。

フレイレの被抑圧者の教育学ではないが,今は新自由主義社会に抗した抵抗の教育学が必要なのだ。

だから,これからではなく,今の社会をどう立て直すのかという問いが必要で,そのためには時の政府のいう教育学では駄目なのだ。

 

だから,文部科学大臣が中教審を組織して議論するという仕組みを構想している時点で,ボタンの掛け違えが起こっているのだ。

それと,毎日新聞がいうような,現場との乖離が起きないようにするためには,教育の目標は,国際社会での競争に勝つではなくて,子どもたちを社会制作の主体にするとか(全生研みたいだね),強い個人ばかりではないので,子どもたちが将来幸せに暮らすことと,もう一つは教師が力量を形成できるためにはどうすればいいのかを真剣に議論することが必要だ。

 

両方必要だけど,教師の力量形成の仕組みを作ることが本当に必要だと思う。

だって,英語や道徳や総合など新しい内容をやれ,アクティブ・ラーニングや反転授業など新しい方法をやれ,上手くできなければ研修に行けっていわれても,「これまで私が自信を持ってやってきたことはどうなるの?」となるでしょ。

全然,教師を励ますものにならない。

 

だから,もっとシンプルに考えればいいのにね。

学校には,国語のことならこの人に聞こうとか,算数はこの人,子どもの見方はこの人に,という人がいるよね。

でもね,美しい理念を口にする人は信じない方がいい。

そういう人の声が大きかったりするから困るんだけどね。

 

じゃあ,どういう人がいいのかといえば,これは簡単。

優れた実践記録を書く人。

というか,必要なのは,その実践記録をもとに実践を考えること。

実践記録には指導案ではなくて,子どものことも書いてあるし,条件作りの困難さも書かれていたりする。

だから,指導要領の理念のようなものを実践化するのではなくて,実践記録をもとに実践をつくり出していくのだ。

優れた教師のようにできなくてもいい。

というか、それは難しい。

でも,困ったらその人に聞けばいいんだからね。

理念の伝承ではなく,実践の伝承だ。

 

こんなことを書こうと思っていたのではないのだが,書き始めたらこうなってきてしまった。

本当は,1930年代の教育実践科学を打ち立てようとした話と,ソシュール言語学をあわせて理論と実践の乖離を埋める方法を示そうとしたのだが・・・・。


今,ヴェローチェで書いているので,なかなかワープロを打つ手の滑りがよくありませんでした。









 

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