体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

読書のススメ

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,ちょっと変わった読書のススメです。

あんまり参考にならないかもしれませんが,最近,読書についての考え方が変わったのかなと思います。

その思ったことを書いてみたいと思います。

では,どうぞ。

 

僕は哲学に関する本を読むのが好きだ。

「哲学に関する本」というのがミソで,哲学の本は難しいので,それを手元に置きながらも(置かなくとも),導きの糸となる本をたぐる。

哲学の本を読んだことがある人はわかると思うが,哲学書は,「いきなり始まる」という印象が強くある。

 

どういうことかというと,心理学の本,例えばヴィゴツキーの『思考と言語』なんかを読むと,「研究問題と方法」が最初に来て,次にピアジェとシュテルンという先行研究(先行学説)の検討が行われる。

僕らが論文を書くときも,問題の所在とか,先行研究の検討を経て,研究の目的と方法を書いて,本論を書き始める。

そして,最後に考察をつけておわる。

実際は,考察を書いたあとで,目的は書き直される。

 

しかし,哲学の本はそういう形式になっておらず,いきなり始まるのだ。

だから,つまずくのは,「この人は何を問題にしているのだろう?」という根本にある問題意識が読み取れないからだ。

もちろん,難解な言葉や,一度読んだだけでは意味不明な言い回し(訳語調ということもある)もある。

 

とはいえ,心理学の論文を読んでも,そもそも先行研究で問題にしている「問題」が自分にとって問題に感じられないこともあるし,データなどの読み方がわからないから,何を言っているのかわからないこともある。

 

でも,導きの糸を出してくれる人は,できるだけわかりやすく伝えようと腐心してくれていることがよくわかる。

たとえば,前にも書いたが,竹田青嗣さん,橋爪大三郎さん,内田樹さん,そして松岡正剛さん。

他にもいるのだろうが,僕はこの人たちの本を読む。

 

内田さんは,レヴィナスという方の研究者であるが,みなさん世の中の知識をモーラ的に知っているため,問題意識,時代背景,隣の領域への越境がたやすいのだ。

それを内田さんは,専門に対して教養という。

教養があるということは,いろいろ知っていると言うことではなく,自分の専門の知識を専門外の人にわかりやすく伝えることができるということだそうだ。

だとすれば,他の領域の知識も受け入れられて,それを自分の言葉で語れる人もまた,教養のある人ということになる(ということにする)。

 

前にも紹介したが,松岡セイゴオ先生は,本もよくて3割5分だという。

野球のヒットと同じで,本のヒットもよくて3冊に1冊だという。

「千夜千冊」のセイゴオ先生がいうのだから,説得力がある。

でも,なんで本には,読んでも入ってくるものと,来ないものがあるのだろう。

 あるいは,好きな小説と,好きでない小説の違いは何だろう。

この種の問いはいくらでも変奏できる。


これを考えるときに,おそらく二つの立場があることを前提としておかなければならない。

一つは,本質主義

一つは,構成主義

難しい話になりそうですね。

難しくないです。

 

本質主義とは,本(あるいは現実)の中に正解があって,それを私がたどり着いていくという考え方。

私とは関係なく正解が存在する。

教科書に正解があるんだから,それを学ぶというのは,この考え方。

成果はテストのようにして測られる。

 

それに対して,構成主義は,私がその本を読んだときに,私に立ち上がってくる意味があるという考え方。

私とテクストとの関係を表現する。

多様な解釈ができるね。


前者は、科学、後者は文学 。

とは言い切れない。

最近では,入試でも「作者が言いたかったのは次のうちのどれでしょう」という問いはされなくなっているという。

それは,かつては狐狸庵先生(遠藤周作)がエッセーでも書いていたことだが,四択だと,たいてい二つは明らかに違うが,二つはどっちでもいいとか,「そういう見方もできるなあ」とかいう感想になるそうだ。

書いた本人がそう思うということに意味がある。

 

で,もし小説で正解がテクストの中にあるのだとすれば,その小説がいいと思う人は,みんなが同じ感動を味わうことになる。

そして,いいと思わない人は,下手をすると読み方が甘いとかいわれることになる。

それは,哲学の本を読んで意味がわからないのは,私の読み方が甘いといわれるのと同じ。

 

ある本を読んでいいと思うところには,多くの人に共通する部分もあるだろうが,違うこともある。

僕は授業であるテキストを渡して,「必ず線を引きながら読みなさい」と指示する。

そして,線を引いた部分をグループで交流する。

そうすると,大体同じだが,「あっ,ここにも線を引いたんだ」と思うことが少なからずある。

もちろん,それが間違っているということではない。

訊いてみると,「なるほど」と思ったりする。

 

どういうことかというと,私が本を読むということは,私の中にある構えがあらかじめあって,その構えをくぐって私にとっての意味が構成されるのだ。

だから,その構えによって構成される意味,自分の興味がわかるのであって,誰もが同じようにフラットに本を読むわけではない。

構えは人によって違う。

同じ人でも,時によっても違う。

 

ある本を読んで感動して,それを人に勧めても,同じように感動を味わってもらえることはマレである。

というか,そういうものだと知る必要がある。

 

で,読書のススメである。

これは,あの人のあの本を読めということではない。

毎日毎日ブログを書いたり,原稿を書いていると気づくのだが,書こうと思っても筆が進まないことがある。

時にはちっとも書けないこともある。

ブログなんてそうだ。

 

そういうときは,書こうとするのをやめることだ。

原稿だったらそれに関わった本,ブログだったら何でもいいので,とにかく本を読むのだ。

小説はちょっと違うけどね。

そうすると,読んでるそばからいろいろな意味が立ち上がってくる。

 

そして,その立ち上がってくる意味をつなげてみると,文章が書けるようになることが多い。

昨日も,丸山圭三郎ソシュールの思想』をめくっていたら,頭が回転した。

前に,林俊雄さんの文章を読んでいたら,いろいろなことが頭に去来して,関係ないことをブログに3日も書いてしまった。

だから,そういう文章が(僕にとって)いい文章なのだ。

 

僕は,いいと思った部分に線を引くか,ページの端を折るか,とてもいいと思ったらページを半分に折る。

で,読み返すのだが,次に読むときには,前に線を引いたところを中心に読むが,別のところが肝だと思ったりする。

これが,構えが変化しているということだ。

 

本を読むときに,そこに書いてあることを読み取るということは大切だ。

しかし,それ以上に,読むことで頭が回転を始めることの方が大切で,回転しないんだったら,読まなくてもいいと思ったりする。

研究しているのでなければね。

 

僕も「たのしい体育・スポーツ」を読んで,「必読文献だ」とかいうけど,興味や構えがない人が読んでも,「あんまりよくわからなかった」となることはわかる。

でもいいの。

今はそういう興味や構えだとわかることが大切。

読む必要があると思えば読めばいいし,丁寧に読むことで構えそのものが変わることもあると思っておくのが大切だ。

 

ナラティヴと物語論は,以上のような意味で,僕の読書に対する構えを変えるものでした。

読書は気楽に,でも頭が回転するものを読みたいですね。

 

 

 

 

 

 

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