体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

科研の会議in福山2

こんにちは。石田智巳です。

 

週末は福山で森敏生さんの科研会議でした。

会議というか研究会でした。

今日は,その二日目の様子です。

では,どうぞ。

 

土曜日は飲み過ぎてしまった。                                                                             

朝起きて,服のまま寝ていたことに気づく。

目覚ましをかけていなかったが,7時に目が覚めた。

 

とりあえず,風呂に行く。

最上階に露天風呂もあるなかなかいい風呂の施設があった。

そして,朝ご飯。

昨日,遅くまで飲んでいたメンバーが食べていた。

その他のメンバーは,もっと早めの行動。

 

さて,公民館に移動して,研究会。

最初は,則元さんのバスケットボールの指導にかかわる研究である。

学習指導要領が,内容にもかなり踏み込んで系統的に示しているが,則元さんたち(僕ら)の系統を,実際の授業で試してみてどのぐらい成果があるのかを見ようとした研究。

高校の先生にお願いするのは大変だろうと察しがつく。

 

休憩を挟んで僕の報告。

『体育科教育』に実践記録の連載をするのだが,その構想の報告と,自分が少し困っている点について出してみて,意見を伺った。

4月号は3月半ばに出るので,一応入稿済みだから,これは変えられない。

しかし,構想が変われば,校正で変えようと思ったが,ゲラが届いていない。

変えようと思うのだが,どうしよう?

 

とりあえず,4月号は,タイトルも「連載にあたって」としてある。

当たり障りのないタイトルでしょ。

書いた中味は手元に届いてから書くが,ざっくりといえば以下の通り。

 

日本の授業研究は,制度的な研究と,自主的な研究会による自発的な研究と二つのタイプがある。

さらに,研究者が主導となってやる研究と,現場教師による研究がある。

また,そこには外国の翻訳調の研究と,日本の教師たちの伝統的な方法とがある。

かつて,出原泰明さんは「教師こそが授業研究の主人公」といったが,それができるようにしたいと願うというようなことを書いた。

 

僕が困っているのは,戦後の実践記録は「主観的」だとか,「文芸的」だとかして,「科学という観点から見たらどうか?」というケチというか,疑問が出されたことについてである。

それに対する反論というか,実践記録の意義についてかつて語られた文章がある。

勝田守一さんによるその文章は,ものすごく参照されているのに,実はわかりにくい部分があるのだ。

その一つは,「形象化」ということなのだが,具体的なことは今は書かない。

 

そのことに対して,教育哲学のある方が,かなり詳しく丁寧に解説というか,研究をしている。

それはそれでよくわかるのだが,話の展開の方向に対して,やや不満が残る。

でも,その人の文章をもとにしつつも,フッサール現象学メルロ=ポンティの知覚理論に牽強付会して,自分なりに実践記録の主観性の問題を超えていこうとしたのだ。

その報告をした。

 

しかし,そのことへの反応は薄かった。

それはそうだろうね。

いきなり,そもそも哲学における「主観-客観図式」の問題性を語ったとしても,普通,そんなこと考えたことがないだろうから。

 

でも,率直にというわけではないが,反応からは,「哲学の議論はやめたほうがいいのでは?」という印象を受け取った。

どうしたものか。

というのも,多様な事情が重なってではあるが,間違いなく実践記録は「主観的」というレッテルが貼られて,科学的な授業研究に取って代わられようとしたのだ。

だから,その問題に自分なりに決着をつけておかないと,やっぱり「主観的,文芸的でしょ」ってなるような気がするのだ。

 

これは,予定では8回目の原稿だからまだ考える時間はある。

この問題が重要なのは,実は議論が哲学的だからではない。

それは,「読者のどの層にターゲットを置くのか」というもう一つ次数の高い問いになるからだ。

学校の先生なのか?それとも同業者なのか?もう一つが,体育同志会の先生なのか?

そこを明確にしていないから,こういう問題が起こるのだと思う。

 

さて,そういう意味で,いろいろなご意見をいただいた。

「空中戦になりがち」

「研究者と実践家,授業の発展か教師の力量形成か,などと二項対立にすべきではないのでは」

「教師が実践記録を書いてみようかと思わせるような工夫が必要では?」

「坂元忠芳をどう位置づけるの?」

「おまえの考えを前に出せ」

など,忌憚のない意見をいただいた。

 

問題は,そうした考える素材(現象学的にいえば「ヒューレー」)やアイディアをいただいたとしても,それがこれから自分の作る物語にどう当てはまるのかが,自分の中にうまく落ちないところにある。

これから考えよ。

 

次に,田中新治郎さんが,図書の紹介をしてくれた。

ジャック・ランシエール『無知な教師』という本だ。

教師が教えすぎると,子どもは育たない。

教師が教えなくても,子どもは育つ。

とういことで,自己点検を促すような内容だった。

 

『たのしい体育・スポーツ』の1.2月合併号にも,「新しい教育社会学の登場」だったか項を起こして書かれていたが,最近,少しペシミックなところがあるのかな。

確かに,「二十四の瞳」の大石先生は,何もしなかった。

ただ泣いているだけで子どもが育つ話だ。

それは他山の石だが,方法論に落ちていくのかどうか。

 

時間もなくなってきたが,最後,中瀬古さんの報告。

保育園をフィールドにした二つの研究を報告してくれた。

 

中瀬古さんは,かつて教科教育の先生として,そういう職場で働いていたが,職場が教員養成をやめてしまい,専門性がいかせないでいた。

どちらかといえば,医療系の職場になって,学生に卒論を書かせる手法も,医療系になってきたという。

ということで,職場を移ることになったとのこと。

これは因果関係ではないのだが。

 

12時過ぎに研究会は終わった。

やっぱり,集団検討はいいものだ。

もう少し時間がほしいところだが。

それと,いろいろご意見をいただいても,すぐに反映させられないのがつらいところだが。

 

福山在住の新谷さんには,本当にお世話になった。

料理もお酒も最高級だった。

ありがとうございました。

研究会のメンバーも,いろいろご意見をいただいたことに感謝。

 

みなさんは駅の前のビルにある尾道ラーメンの名店へいったが,僕は家に帰らずに,こだまで東広島へ,さらに西へ行った。

その時間の関係で,別行動をした。

その様子はまたの機会に。

 

 

 

 

 

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