読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

『たのしい体育・スポーツ』1.2月合併号 林さんの文章を読む3

こんにちは。石田智巳です。

 

『たのしい体育・スポーツ』の1.2月合併号の林俊雄さんの文章を書いて,これで3回目になります。

1回目の学習集団と学級集団の話は,これは冬大会の石井実践のこともあったし,少し気になっていたことでもあったので,敢えてそこへ大きく脱線しました。

 

そして,2回目は,80年代の体育同志会の集団研究が,系統性研究の成果を教える中での「わかる,できる」の内実にあったことを書きました。

これは,僕に課せられた別の原稿を書いている中で,いろいろ調べていくうちに分かってきたこととちょうどピッタリあったからでした。

 

でも,本当は林さんのこれから読む実践について,キチンと書かないといけないと思いつつ,かなりの遅疑逡巡がありました。

その理由についてもこれから述べますが,うまく書けるかどうか。

では,どうぞ。

 

林さんの実践といえば,「4.うまい子とへたな子の関係づくり(固有名詞の関係づくり)」に書かれる「長尾の涙」のサッカー実践が有名だ。

僕は,この合併号の林さんの文章を読んで,はじめて気がついたことがある。

このときに用いられたオフェンス2対ディフェンス1(+GK1)の学習場面は,その前に広島支部で集団研究をしたが,そのときに使われたグリッドサッカーの場と人数などをもとにして構成されていたのだ。

 

グリッドとは,サッカーのコートをマトリックスのように線で区切って,そこで行うのだ。

これは,プレーヤー側に条件を設けることもできるが,むしろ,ゲーム分析として,どこでどういうプレーが展開されたか,授業が進むにつれて空間の使い方がどのように変化したのかを読み取るためにあったと思われる。

 

図1を見てもらいたいのだが(見られないが),これの縦の破線を取ったものがじゃまじゃまサッカーのコートと同じ形になる。

そして,そのこともここに書かれている。

じゃまじゃまサッカーの前に,グリッドサッカー(ポムとかいっていたような気がするが)があったのだ。

それを,大阪の船富さんや山本まあさんたちが,じゃまじゃまサッカーに仕立て上げたのだ。

 

だから,林さんのこの実践もある意味では,じゃまじゃまサッカーに近いのかも。

で,僕がこの実践を知ったのは,出原さんの『「みんながうまくなること」を教える体育』(大修館書店,1991)でのことだ。

 

このころというか,実践が行われていたころは,僕は大学生だったので,体育同志会のことは名前は聞いていたぐらいでしかなかったと思う。

これを読んだのは,当然大学院に行ってからで,90年代の半ば以降のことだ。

昨日も書いたことだが,この時代に体育同志会の課題は何で,それはどういう課題を引き継いだのかとかはさっぱり分からなかったし,ここに出てくる諸実践の持つ意味や出原さんのコメントの意味もまるで分からなかった。

 

ただ,「広島」,「附属」,「林」というキーワードからか,あるいは実践そのものの魅力(当時は言葉にすることができなかったが)に引かれたのだろうか。

とにかく,この実践は覚えていた。

今となっては記憶が曖昧で,今語ると,今の言葉に引っ張られるから避けた方がいいのだが。

 

でも,敢えて言うと,水道方式やドル平泳法は指導の順序を考えるときに,一般から特殊へという考え方を採用する。

計算,あるいは泳ぐというもっともシンプルで典型的な形を学んでから,それを簡単から複雑へという原理に従って学習を進めていく。

固有名の関係というのは,特殊から一般へだよな,と思ったのかもしれない。

それをどう考えるのだろう?と。

今となっては,学習活動そのものを対象化にするというときの手がかりは,具体的な個人が所属するグループやそこでのコンビのリアルなやりとりになることはよくわかる。

 

だから,教師の用意する教材の順序と,子どもたちのリアルな学びの方向性は逆になる。

一般的で典型的なパターンを,個別的具体的な関係で学習するということだ。

 

さて,昨年のあるとき,林さんと森さんと話していたときに,森さんがこの実践の話を林さんにふった。

『たのスポ』の「時代を拓く連載」実践の企画のことだったと思う。

僕も「長尾の涙」を覚えていた。

その後(昨年のこと),この実践を読み返した。

そのときに,出原さんの実践記録論も読んでいた。

 

これは重要な文章だと思った(かつては思わなかったというか,そこまで感度が高くなかった)。

僕は,昨年の夏休み(9月末まで),実践記録について調べようと思っていろいろ文章を渉猟していた。

50年代の生活綴方,教科研の議論,60年代の綴方の衰退と授業研究における科学,70年代,80年代の議論の書かれた文献を探した。

それは,体育だけではない。

 

実は,この出原さんの実践記録論を読んで,いろいろ考えることがあったが,それは自分の中では整理のつかないことだった。

時代的にも内容的にも。

今,少し整理がつきつつあるが。

だから,ひとまず見なかったことにした。

もう一つ,実践記録論で気になっていた「客観性」についても,敢えて触れないことにした。

 

そうして,9月に愛知で話をした。

それから,実践記録についてブログで取り上げるのはやめた。

やめたのではなく,整理する時間がなかったからやれていないのだ。

文献は集めている。

 

そして,林さんの文章を読んでの遅疑逡巡である。

つまり,キチンと出原さんの本にまるごと向き合うこと,そこからあの時代の時代状況とあの本のやり方や内容,そしてそれが与えた影響などを読み取る作業が必要だ。

これは,やるけど,まだまだ先のことだ。

 

ということで,僕は林さんの文章に接して,頭がすごく回転して3つの話を書いたが,そこに林実践はほとんど登場しないのがいたい。

 

林実践をまだ続けるか,やめるかはまた考えます。

 

 

 

 

広告を非表示にする
http://tomomiishida.hatenablog.com/