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体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

『たのしい体育・スポーツ』1.2月号 林さんの文章を読む2

こんにちは。石田智巳です。

 

昨日は,林さんの文章を読むとしておきながら,林さんの文章にでてきた人たちから学習集団や学級集団の話になってしまいました。

そのため,まったく,林さんの文章には入れませんでした。

今日は,なんとか文章を読んでみたいと思います。

では,どうぞ。

 

林さんの文章の前半を読むと,広島大学附属小学校へ勤務して,そこで小林一久さんや吉本均さんの考えに触れて,集団思考場面を構成することを試みて実践したことが書かれている。

「自分たちで見つけた技術ポイントを意識しながら,習熟練習すれば,訳もわからずただいわれるままやらされるだけの練習ではなく,目的意識的な練習ができるようになるはず」(23頁)。

そのために,「学年や教材に応じた技術ポイントの絞り込みと比較・観察を通した発見を促すための発問研究に焦点化して」いたという。

 

これは,『体育科教育』の1983年の8月号に書かれている。

時代を感じるというと失礼だが,林さんが若い。

ここには,林さんが行った小学校1年生の投動作の授業の「授業記録」が載せられている。

「授業記録」というのに一つの時代があるのだが,林さんがどんな授業を行ったのかがよくわかるように記録がおこされている。

 

それだけではないのだろうが(1年生であることも含めて),林さんの授業は,これを見る限り,グループ学習ではない。

「わかる」を中核に据えることで,みんなが学び合える学習を仕組むことができたが,「間違いなくどの子も持っている上手になりたいという願いをしっかりと叶えられる授業ができていないことも課題として感じていた」(23頁)。

 

そこで,田中新治郎さんに誘われた体育同志会で学び,新たなステージに立つ。

みんなでわかって,できるだけではなく,何をできるようにするのか,子どもたちのわかりの内実は何か,さらには学習集団と技術指導などが研究の対象になる。

 

次がいいと思う。

「広島支部の例会では,これまでの系統性研究は尊重しながらも決して到達点ではないこと,特に子どもたちの学びの事実を丁寧に分析した上で何をどのように教えるのかという研究に取り組む必要があるということが合意され,領域・教材を一つに絞り込み,できれば小学校,中学校,高校段階で同じような条件で比較実験授業を行い,各段階の子どもたちの『わかる・できる』の過程を詳しく分析してみようということになりました」。

 

これは,僕の勝手なストーリーづけでは,「系統の一人歩き」がいわれて,できあいの教材をパッケージ化して子どもに与えることへの批判がいわれるようになった後,子どもの発達研究や授業論が言われるようになってきたときの話だ。

だから,教育課程分科会ができたあとの議論だ。

また,岡山の阪田さんが発達研究を展開するのも,この頃だ。

また,「わかる」に関していえば,初期の学力論議が「わかる」ことの重要性を位置づけること(学力規定論)にあったとすれば,80年代になってからの論議は(学力形成論)にあったわけで,それが体育同志会の課題にもなっていたということがいえるのかな。

 

こういうのを教師による実践研究,集団研究という。

なにしろ,これは研究者でも明らかにし得ていないから。

『たのスポ』12月号では,大阪支部で90年代に「競争研究」を集団で取り組み,そのもっと前にはポドテキスト研究といって,坂元忠芳さんが考えた実践記録に関わる集団研究も行われていた。

自分たちで明らかにするという思いが強くあったのだろう。

 

もちろん,そういうときに現場をそそのかしてその気にさせる人が必ずいたのだろうが。

あとは,80年代の半ばという時代をどう見たらいいのだろうか。

年々,実践の自由がなくなっていくという言い方がされたが,教育の構造改革は89年の指導要領にあるとすれば,その前の時期はもっと自由に研究ができたといえるのだろうか。

逆に言えば,90年代になるとやりにくくなったその波を民間研究団体もかぶることになったのだろうか。

 

今度,林さんに聞いてみよう。

今日も,ここまでで時間切れ。

本当は,このあとの実践が面白いのだが,そこまでもいけず。

 

 

 

 

 

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