『たのしい体育・スポーツ』1.2月合併号 林さんの文章を読む
こんにちは。石田智巳です。
昨日は,へばっていたので,体調の悪さをネタにしたブログの記事となってしまいました。
今日は,『たのしい体育・スポーツ』1.2月合併号の,林俊雄さんの文章を読みます。
実は,前に一度読んで,もう一度読み返してみるといろいろ面白いと思うことがありました。
なので,そのことを中心に書いてみたいと思います。
林さんの文章の中味には,入れないかもしれません。
では,どうぞ。
僕は,林さんが24年間勤務していた学校に教育実習にいった。
とはいえ,僕は小学校免許を持っていないので,1週間ほどの観察実習という形だった。
そのときは,林さんのことを知らなかった。
こういうときの記憶は曖昧で,その後,体育同志会の広島支部にちょっと顔を出してグダグダ言っていたときに,林さんに会ったのだと思う。
でも,小林一久さんと一緒に『体育科教育』に書かれた文章は読んでいた。
ここには,小林さんのほかに,田中新治郎さん,吉本均さん,出原さん,中村さんと大物の名前が登場する。
そして,この4人はいずれも,学習集団に関わって一家言のある人なのだ。
昨年の『たのスポ』5月号に,田中委員長が,1960年代のころの生活指導論の特徴を表にしている。
宮坂哲文さんは生活綴方をベースとした生活指導論(解放から規律へ)で,大西忠治さん他はその逆で(規律から解放へ)だったと思う。
竹内常一さんは,この時点では生活綴方があんまり好きではなかった(たしか)。
でも,その見方も時代が下がると変わったようだ。
そして,吉本さんも学習集団にかかわっては,独特の位置を占める。
それは,学級集団の自治というよりも,やはり学習集団の組織なのだ。
そういう意味では,体育同志会は学習集団における自治を問題にするといえる。
うかつなことは書けないが。
以前,教科指導と教科外指導の関係(陶冶と訓育でもよい)について,体育同志会で議論があったときに,丸山さんが吉本さんの「訓育的陶冶」という概念を引いた。
吉本さんは,授業にも訓育を求めるのだ。
で,宮坂哲文さんもそうだった。
それが,田中さんの表(2014年5月号,31頁)の「生活指導における概念規定」の,「機能概念」か「領域概念」の違いとなって表れている。
で,僕が吉本さんの訓育的陶冶だったかでいいなと思ったのは,陶冶材に向かわせて学習を成立させることだって訓育だっていうようなことを言ったことだ。
体育でグループ学習が成立しなくなったとよくいわれる。
学級経営ができていないからまずそれを,とか,学級集団を組織してから学習集団へ向かう,というのは,生活指導を領域概念としてみているからだ。
体育同志会のグループ学習は,かつてはグループ学習で教材を学ぶというときに,グループ学習には訓育的な意味があり,教材の学習が陶冶的な意味があるとしてきたのではなかったか。
しかし,今では,教える中味としての教材に訓育的な中味を探す,という意味で運動文化材の存在が大きい。
班競争だとか,教師を乗り越える指導だとかの方法だけでなく,教材の持つ(まさに競争としての)魅力や,教材をともに乗り越える指導という教える中味に関わって授業を仕組むところに1つの違いがある。
それが,教科内容研究によって登場するのだと思う。
だから,グループ学習の方法的機能を利用することと同時に,陶冶材に内在する訓育的機能を発揮するであろう何かをいかにして見つけるのか。
例えば,単純にものすごく魅力的な教材を持ってきて,みんなが喜んでやってうまくなったというのも1つの訓育的陶冶ともいえる。
ただし,この場合は生活指導によって自治を育てるとか,要求を組織するとはいわない。
けど,その考え方は体育同志会の中にも少なからずあると思う。
ああ,話が林さんのところに行かない。
でももう少し。
集団づくりの方法の考え方に違いがあったとしても,目標とする民主的な人間関係の形成や,自治的・自主的な集団と個人というものが一致していれば,対話が成り立つ。
でも,他人を蹴落とす新自由主義的な価値観とははじめから相容れないものとなる。
だから,教育論議でまず重要なことは,一致点を探ることだろう。
それが無理だったら?
それはサンデル先生にでも訊いてください。
体育同志会の中にも,なかなかいろいろな考え方があるが,おおくくりでは一致していると思う。
だから,対話が成り立つ。
それが隣の体育論とは,一致する部分と一致しない部分があるが,その時にどう対話するのかな。
大切なのは,体育というひとつの社会理論に対して,正しい認識と間違った認識があるという問い方をしないということだ。
自分を戒めたい。
林さんの話はまた書きます。