体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

『たのしい体育・スポーツ』1.2月合併号 田中論考を読む

こんにちは。石田智巳です。

 

今日も『たのしい体育・スポーツ』1.2月合併号を読みます。

田中委員長の「運動文化論を自己点検する」を読んで,考えたことを書きます。

とはいえ,実はこの論考を読んで,前にも同じような逡巡を抱いたのでした。

前のときには筆が進まず,結果として筆を措くことになりました。

今回は挑んでみたいと思います。

では,どうぞ。

 

田中委員長の論考は,昨年の10月号に載って以来だ。

あのときは,「新たな運動文化論に向けて(1)-主体者形成論の見直し-」となっており,11月号に(2)が載るのかなと思っていた。

読み返してみたら,この号(1.2月合併号)に載るという。

 

それで10月には,早川元委員長の「見るスポーツ」でいろいろ教えてもらうことがあって,スイスイ書いていたのだが,田中委員長の論考を前にして,すくんで書けなくなった。

 

例えば,10月号には次のような件がある。

「おおざっぱな言い方をすると,1990年代に教員になった者にとっては運動文化論はその歴史的意義に敬意を感じつつも,いまひとつ自分の問題関心にひっかからない違和感をもたれているのではないだろうか」。

 

そうかもしれない。

僕は,海外ぶらぶら生活があったので少し遅れたが,普通にしていれば,1991年に卒業だったのだ。

バブルの崩壊のかろうじて前のことであり,同級生はいいところに就職した。

教員採用は少なかったのだが。

 

で,これを読んだとき,ちょうど右の頁の一番最後に引用文があって,その原因を田中委員長が述べている部分はちょうど左の頁のはじめに書かれていた。

だから,その一瞬のタイムラグで,僕は「世代論だよな」と思ったのだった。

しかし,違った。

運動文化論は,横森さんも,久保さんも,というか誰もが「学校を社会との関連で捉える視点」を持っていると語るのだ。

 

しかし,それがなくなっているという。

学校を社会との関連で捉えるだけでなく,子どもを社会と結びつけて捉える視点が今は弱く,それらを「精緻化する研究作業が必要なのだが,その作業が近年,停滞している。それが違和感を持たれる一因のように思うわけである」。

この視点はなかった。

 

でも,いわれることはわかる気がした。

気はしたが,筆が止まってしまった。

で,その時も,どっかでそのような論議があったよなあと思って,記憶をたどって,本をめくってみたらあった。

 

森田尚人「教育の概念と教育の方法」という論文だ。

これは勝田守一さんのことを批判的に取り上げた論文である。

僕はこの論文の半分も理解できなかったが,勝田批判は何となく気にくわなかった。

端的に言えば,時代制約と,教科研のリーダーとしての彼の立場を敢えて考慮に入れず,教育学一般の問題にしようとしていたことがだ。

そんなことを,ここで書いてもわからないよなあ・・・。

 

で,こういうことが書いてある。

「最近の個人主義偏向を強める教育論議とは対照的に,勝田が『能力と発達と学習』の中で,子どもの成長を社会と関連させて考察する視点を崩していないことは強調されてよい(31)。

(31)は注なのだが,そこに書いてあることが,次のこと。

 

「二つの岩波講座,つまり,勝田が中心となった1960年代の『現代教育学』から,勝田の没後,大田堯や堀尾輝久等が中心となった1970年代末の『子どもの発達と教育』への編集方針の変化は,戦後教育学が社会的,歴史的視野を急速に失い,教育学が子どもの発達を軸に視野を狭隘化させていった事情を端的に示している」。

 

これは,一人同志会の研究の遅れというよりも,世の中がそうなってきたということなのかもしれない。

田中委員長が言いたいことは違うかもしれないが。

「違う」というのは,1.2月合併号を読めばわかるのかもしれない。

 

田中委員長の10月号の論考は,そこから,主体者形成というときに,「強い個人を想定しすぎるだろう」という論調になる。

たしかに,運動文化の主体者形成というとき,「主体者は君と君と君ね。後の者はダメだな」ということはできない。

かといって,誰もが強い個人として,スポーツを我がものにできるかといえばそうではない。

 

そして,最後に「能力を主体化してはいけない 主体を個人化してはいけない」が書かれて終わる。

いわんとすることはわかった。

これは,僕の捉えでは,フロイトの思想やフッサールの思想に近い。

あるいは,苅谷剛彦さんの一連の論文での主張もそうかもしれない。

湯浅誠さんの「ため」にも近い。

 

デカルトを嚆矢とする近代哲学は,コギト(考える私,疑う私)を想定し,私が世界を認識すると捉えてきた。

しかし,フロイトは私の中の闇の部分=無意識が私を動かすというような言い方をした。

構造主義的な発想である。

「私が認識する」のではなく,「何かが私をしてそう認識させる」のである。

フッサールは・・・・,やめた。

 

苅谷さんは,例の「母親の学歴」が子どもの学力と相関があるという論。

自分が努力して,いい大学に入ったと思っているけど,それは,半分はそうで,後の半分は環境による(誰がが私をして)と考えるのだ。

 

で,委員長のいいたいことはわかる気がしたが,ブツッと切れたような終わり方だった。

 

だから,スイスイ書けなかった。

ということで,今日も看板に偽りあり。

10月号の論考のことを書いてしまいました。

 

またリベンジします。

できれば。

 

 

 

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