体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

『体育科教育』12月号-小学校における体育の教科書の可能性・大貫論文を読む-

こんにちは。石田智巳です。

 

奈良マラソンまでもう少しなのですが,体調が上がらず,なんだか焦っています。

でも,やることが多くて,ちょっと集中力がない感じです。

今日は,『体育科教育』12月号に載っている大貫耕一さんの,「一利あるも,百害もまたあり-誰のため,何のための教科書なのか」を読みます。

では,どうぞ。

 

小学校体育の教科書については,あまり興味がなかった。

ただし,別なところに興味があったので,たまたま11月下旬に東京に行ったときに,この雑誌(『体育科教育』)を携行した。

その日は,体育同志会の拡大全国常任委員会だったのだが,そこにこの号に執筆している大貫さんと堤さんもおられて,そちらで話が盛り上がっていた。

書いていることに被っていることが多いということだ。

 

それで,この雑誌は,忙しくてあまり読む時間がとれなかったのだが,通勤の電車で読んでみたら,なるほど勉強になるなあと思い,書き留めておこうと思ったのだ。

それが一昨日のこと。

その時は,白旗さん,大貫さん,そして今関さんのを読んで書こうと思った。

それぞれの立場から何を言おうとするのかを読み取ろうとしたのだ。

しかし,書き始めてみると,とても3人分を一回の記事にすることは難しいと思い,諦めた。

ということで,今日は大貫さんの論文を読んで,考えたことを書くことにした。

 

ふむふむ。

さすが大貫さん。

書き始めがいいね。

いきなり,『週刊東洋経済』9月20日号と,OECDの国際教員指導調査の結果を載せてくる。

「世界一多忙だが,自分の指導に胸を張れず,評価が低いと感じている日本の教員」というのが日本の教師像だ(高浜行人,芳垣文子,岡田昇,2014)。

 

僕は,日本の教師は本当によくやっていると思う。

ものを教えるだけでなく,生活指導も,部活指導も親対応もして,それも文句を云わずにやっている。

でも,政治家や,政策を立てる側や,管理する側から見れば,まだ足りないとなるのだろう。

この間の報道を見ていると,新しい学習指導要領で,指導方法も枠づけられるわけだし,小学校では,英語や道徳などが教科になり教科書を使うということで,研修を受けなければならなくなるという。

もっと教師が落ち着いてできるような改革をしてほしいものだ。

 

大貫さんは言う。

そんな多忙な教師には,教科書は朗報となる。

確かに体育の授業を作るのは難しい。

それは,教科書(とその指導書)がないからかもしれない。

教科書があれば,そして指導書があれば,授業らしい授業はできるだろう。

それが,一利だというわけだ。

 

次に大貫さんは,算数の授業の事例を挙げて,自信や誇りを持てない教師たちに教科書が害になる可能性(というか経験)について述べる。

大貫さんは,かつて,小学校1年生に理解しやすい計算の仕方を研究した。

その結果,教科書の方式ではなく,十進位取り記数法を重視した筆算指導で成果(足し算,引き算で95%以上達成)を得たことを報告した。

水道方式的な計算なのかな。

 しかし,成果があったにもかかわらず,次の年の算数指導は,「教科書通り」であり,その成果は闇に葬られたという。

 

僕は違う角度から同じようなことを指摘したことがある。

ある中学校で,研究指定を受けて3年たったから,成果を報告をして紀要を書いた。

そこには当然,「成果があった」と書かれている。

しかし,次の年からまた3年の違う研究指定を受けたから,「今度は何になるのだろうか?」とその学校の先生たちは,困惑気味にいった。

普通に考えたら,成果が出たんだから,後はやり残したことや課題となっていることを追求すればいいのだが,そうなっていない。

「成果は出た」けど,本当のところはどうなのかという疑心暗鬼もあるのかもしれない。

でも,指定を受けている以上やって,違う成果を出さなければならない。

ここに「胸を張れない」一端があるのかもしれない。

 

で,大貫さんは,教科書ができると,現場が明らかにした「子どもにとってよい方式」よりも,教科書に配慮しなければならないという経験から,教科書導入に危惧を抱く。

 

この話は,しかし,大貫さんにしてみれば,教科書の内容の問題であると同時に,多様な教科書があるにもかかわらず,自分がやりたい内容が書かれている教科書を選ぶことができないという問題でもある。

 

最後に,大貫さんは,故中村敏雄さんが1987年に書いた「マニュアル症候群からの脱皮を」を引く。

そして,冒頭で述べた「一利」が,中村さんが指摘する「子どもたちの多様性に立脚した実践の展開を断念する」危険性が含まれているとする。

 

現実に,90時間や105時間分の指導案が配布されている地域もある。

それによって,救われる教師もいるかもしれない。

 

僕は『体育科教育』の今年(2014年)の3月号に次のように書いた。

指導資料は,指導計画が持てない教師を一定のレベルに引き上げるにはいいかもしれない。

しかし,子どもを見ながら自分なりのエキスを絞ったり,子どもの力を引き出すことは難しいだろう,と。

 

だから,教師にとっても,子どもにとっても,最低限の保障という観点からみれば,教科書や指導書があることは,悪くはないかもしれない。

しかし,それを越えてやることに文句が出るならば,教師の成長という観点からみて問題となるのだろう。

 

とはいえ,学習指導要領も,「今では(?)」発展的な学習を認めているのであり,自分なりにエキスを絞ってやることや,自分なりにオリジナルな教材をやることに文句を付けられることはないはずだ(たぶん)。

やらないのは問題かもしれないが。

 

でも,「検定」でしょ。

誰がどう検定するのだろうか。

 

あるいは,体育同志会版の教科書といったら,絶対とはいえなくても,やっぱり反対なのだろうか。

だって,教科書で今問題の俎上にあるのが,「運動技術」の指導のことだから。

『たのしい体育・スポーツ』 2014年12月号では,「競争を教える」ことが特集されている。

そこでは競争をテーマにして,子どもたちに考えさせる授業が展開されている。

 

だから,競争をどのように捉えるのか,あるいは,競技とは違う競争をすることで,技術指導のあり方も変わる。

しかし,教科書にはそんなことは書けない。

初期設定が,「技術を教えること」にあるから。

 

だとすれば,使っても使わなくてもいい参考資料となる。

それを教科書というのかな?

 

 

 

 

 

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