体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

『たのスポ』 11月号を読む-つながるということ

こんにちは。石田智巳です。

 

今日も,『たのしい体育・スポーツ』の2014年11月号を読みます。

この11月号の特集は,「つながり」です。

「つながる」ということが,おそらく様々な角度から書かれていると思います。

今日は,「かぜ」を中心に読んで考えたことを書きたいと思います。

あまり論考を読んで批評めいたことはしたくないのですが,一つ気になることがあるので,それを中心に読んでみたいと思います。

どこまで行けるかは不安ですが。

では,どうぞ。

 

「たのスポ」では,2006年5月号より巻頭言や巻頭論文が,「かぜ」に変更になり,1ページで特集の趣旨や構成,そして読み方が書かれるようになった。

そのため,「かぜ」は基本的に,編集担当者が書くことになる。

今回は,B班(東京班)が担当のため,班長の酒井さんが書いている。

そのタイトルが「つながりをめざして」である。

これを簡単に要約してみたい(もともと,簡単に要約したような文章なのにすまないと思ったりするが)。

 

まず最近の子どもたちの様子が語られる。

教師が注意したら,自分が否定されたと感じ,反発する子どもたち。

先日紹介した川渕さんのレポートにも,先生が声をかけると,叱られると思って泣きそうになる自信のない子どもたちというのがあった。

後述の,石垣雅也さんの論考にも,「子どもの中にある強い不安の感情,自分が攻撃されていると感じる感覚の過敏さ」(8頁)にも表れている。

反発するか,泣くかは防衛反応の違いと思うが,基本的な構図は同じだろう。

酒井さんは,人との関わりを面倒に思う子どももいるという。

 

そこで,酒井さんは,「心の底では人とのつながりを求めているのでしょう。けれども,関わり方が下手で関係を作ることが難しかったり,もめ事につながったりします」と述べる。

人とつながりたいのに,もめ事とつながる。

これは困ったものだ。

「『つながりをもちたい』のに『つながれない』」。

 

森敏生さんの論考にも同じようなことが書かれている。

「他者とのつながりを切望しながらも他者と関わることに深い不安や不振を抱え,他者との関わりに最新の気遣いを要旨,自分を変え他者との関係を変えることに抵抗や困難を感じている」(12頁)。

 

酒井さんは「こうした子どもたちに今こそどんな実践が待ち望まれているのでしょうか」と問題提起をする。

これが,本号に連なる問題意識と捉えてよいだろう。

 

そうして,次が「民主主義体験としての『つながり』」という石垣雅也論考へいく。

タイトルを見れば推測できるのは,以下のことである。

「社会に民主主義が希薄になっている,あるいは,民主主義という建前はあるが,それが感じられにくい社会になっている。」

ということを石垣さん(だけではないだろうが)が,感じているということだ。

石垣さんの「はじめに」,ではそのことが書かれている。

 

先日の大阪教研で,なんでそんな話になったのかは忘れたが,「上部構造と下部構造」の話が出て来た。

日名さんが訊いてきたのだ。

僕の一知半解でいえば,経済の仕組み(土台)によって,政治や教育などの仕組み,そして人の意識(上部構造)は変わるということだ。

もっと云えば,経済の恩恵の受け方(階層)によっても,人の意識は変わると云えるだろう。

 

だから,構造主義的には,「集団的自衛権の解釈を巡る閣議決定」,「教育基本条例」,「パワハラ」などの強権が発動され,民主主義が崩されていくという土台があり,そこに生きる大人や子どもの意識はそれに規定されると云うことだろう。

 

80年代に,丸金(○の中に金),丸ビ(○の中にビ)という言葉がはやった。

ニューアカニューアカデミズム,新しいアカではない)では,スキゾとパラノがはやった。

なんか,今で云う二極化のような云い方だ。

一億総中流の中で出てきた言葉という点で今と違うような気がするが。

 

で,支配する側やそうありたい側の意識と,(そうありたくなくても)支配される側の意識もまた自然と分かれるのかもしれない。

それが,「インセンティブ・ディバイド」という苅谷剛彦さんの言葉に表れている。

 

「つながりたいけど,つながれない」というのは,こういう差によるものなのか。

あるいは,社会の縮図だからだろうか。

ここら辺はもう少し丁寧な議論が必要な気もする。

というのは,多くの人が気づいてる別の要因もあるから。

 

金曜日の夜ご飯は,1人で近くのそば屋にいった。

僕はカーボローディングのため,親子丼とミニそばのセットを頼んだ。

そのときに,先客として母親と4年生ぐらいの息子,中1ぐらいの娘の3人がいた。

僕が入ったときには,3人は注文した後だったが,息子はゲーム,娘と母親はケータイでそれぞれの世界に入っていた。

木曜日の朝は,朝早い嵯峨野線に同じ制服を着た男子高校生が数名乗っていたが,みんなスマホでそれぞれゲームをしていた。

 

20年以上前,僕は2年間海外でおつとめをしたことがあるが,それから帰ってきたときに,友人が成田まで迎えに着てくれていた。

その彼と成田エクスプレスに乗って東京に戻る途中に,異様な感じがした。

それは,車内でしゃべっているのは僕だけで,後は多くの人がマンガ雑誌を読んでいたのだ。

誰もしゃべらない。

成田エクスプレスの特徴でもあるのかもしれないが,今は,そこら辺の電車でも,マンガや雑誌がケータイ・スマホに変わっただけだ。

 

だから,そういう時代の子どもたちのつながり方の質を問題にしろと云っているわけではない。

僕らに「できることと,できないこと」の峻別は,「教材と教科内容」の峻別よりも大切なのだ。

 

先に,下部構造と上部構造の話をした。

政治は上部構造に属する。

政治のありようが,支配と被支配の階層を生みだし,大人も子どもをつながりにくくしているという論調が多くある。

僕もそう思っている。

 

しかし,今の大人や子どもの生活は,非常にアトム化しているのは,政治の影響と同時に,一家に一台の電話ではなく,1人に一つのスマホスマホが持てない子どもはゲームを持っていることに現れる。

そして,同じ場所でつながっているように見えて,頭の中はつながっていない。

 

で,なんでそうなったのかはもうわかると思うが,資本主義が行き届いたからだ。

資本主義企業が人々の欲望に火をつけ,企業がそれに応えるというマッチポンプを繰り返してきた。

そのため,ネット的なつながりの難しさと同時に,生身のつながりの難しさを生み出してきた。

 

資本主義が行き届き,その元で経済優先の政治がなされ,勝ち組・負け組という身も蓋ものない云い方で分断させられる。

同時に,資本主義が行き届き,欲望が満たされて,生身でつながる必要がなくなる。

 

だから,資本主義の台頭が,巡りめぐって民主主義を後退させているとでも云えるような気がする。

それは,政治を介して民主主義を後退させようとする勢力と,商品を手に入れることで欲望に火をつけて,そのことで他者や政治と無関心になることで,自ら民主主義を後退させようとする勢力がある。

そして,両者が手を取ったということだ。

 

だからこそ,彼らがつながりを求めているのかどうか,本当のところはわからない(けど,そう信じるしかない)。

が,問われるべきは,「なぜつながらないといけないのか」であろう。

学校でうまくつながれなかったりしても,家に帰ればゲームやスマホでつながれるのだからと子どもの側から拒絶されるかもしれない。

 

さんざん理屈をこねたけど,その問いに対する答えは結構簡単。

理屈で答えるのではなく,「やってみればわかる」ということだ。

それは,先生方も経験上知っていること。

でも,それは子どもも大人も先に理屈で知ることではなくて,後で身をもってわかることなのだ。

それは,夏の注目の実践に選ばれた石井実践も教えてくれる。

 

ただし,体育授業でつながったことがそのまま社会でのつながりへと結びつくと考えるのはあまりにも短絡的だ。

でも,そういう経験を少しでも積み重ねるしかない。

まさか,打倒資本主義!と息巻いてもしょうがないのだから。

 

ということで,「つながる」体育授業の方法や内容について,本誌を読んで,また考えたいと思います。

 

 

 

 

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