体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

体育と実践記録8 体育における実践記録の位置づけ

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,体育における実践記録の位置づけです。

前回は,小林篤さんの文献を紹介しようと思って書き始めましたが,脱輪して戻ってこれなくなりました。

なので,不時着をしました。

今日は,いよいよ体育における実践記録を,他の授業分析の方法のなかに位置づけてみます。

とはいえ,僕が調べ上げるのではなく,小林さんの仕事を紹介すると云うことです。

では,どうぞ。

 

今日取り上げる文献は,小林篤「体育における授業分析の基本文献をリスト・アップする試み」(『日本体育学会大会号』,1980,749頁)である。

 

これは,1980年に東京学芸大学で行われた日本体育学会の発表要旨である。

A4の用紙に一枚分で,この頃は手書きである。

かつて1960年代に体育同志会のメンバーが学会発表したときも,もちろん手書きであったが,字数は約半分。

手書きワープロ打ちとなり,それがPCでの作成となってきた。

また,分量は現在は,数行の要旨を載せることになっている。

 

さて,この発表の要旨は次のようである。

「研究法の習得に非常に意味があるのは,先行の詳しい研究論文を丹念に読むことであるが,この場合,手当たり次第に読むよりも,まず研究法を分類し,それぞれの研究法の代表的な論文(つまり基本文献)を系統立てて読んでいく方がはるかに効率がよいことは,いうまでもない」

そこで,この研究法の分類と基本文献をあげることが目的となっている。

 

なお,用語としては,「授業の記録(子どもの感想文を含む)を検討しそこから何らかの因果関係を見出そうとする行為を授業分析とよぶことに」した。

 

まず,授業分析は,以下の3つに分類される。

A授業の客観的な記録による分析

B子どもの目を通しての授業の分析

C授業者の目を通しての授業の分析

 

図にするのが難しいので,写真を貼り付けておく。

 

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 写真の一番下に,「②基本文献として,次のものをリストアップした」とある。

 

A.a.1としては,重松鷹泰さんが指導した富山市堀川小学校『授業の研究』,明治図書,1959。

これが,日本における体育の最初の授業分析だそうだ。

 

さらに,教科研身体と教育部会「体育の授業研究」『教育』1967年7月号(210号)。

これは,『戦後民主体育の展開 実践編』(城丸章夫他編,新評論,1975)にも載っている。

 

内容については省略するが,要するに,体育の授業をテープレコーダー,8ミリ,ビデオなどで撮影して,実践記録を作って,分析するというものだ。

教科研の坂入博子さんの授業では,指導計画(指導案)も示され,授業記録をもとに,授業を見た人たちが共同研究を行う。

ここには,杉村瑞穂さん,中森孜郎さん,正木健雄さん,に加えて,斎藤喜博さん,柴田義松さんもいる。

僕の手元にある『戦後民主体育の展開』には,共同研究の様子は載っていないが,坂入さんの「授業を終って」を見ると,ケチョンケチョンにいわれていたようだ。

 

A.a.2 この方法の先駆けは,木原健太郎さんということだ。

体育では,江橋慎四郎さん「体育科における教授過程の分析」1960だそうだ。

これは,体育授業の記録から,教師がしゃべった時間,しゃべった内容のカテゴリー化とその割合,などを作成して分析するという方法である。

 

A.b 「ゲーム・スコア,シュート数の記録などは古くから行われているが,新しい局面を開いたのは学校体育研究同志会」と書かれてある。

例としては,根本忠紀「サッカーのゲーム分析」『体育科教育』1976年8月号とある。

 

これには,運動量と心拍数のようなものも含まれているが,授業というか,行われている運動,ゲームのデータをとってそれを分析するタイプといえる。

 

B.c.1 この方法は,高田典衛さんの『子どものための体育』(1963,明治図書)が先駆け。

大段員美,佐藤裕『創造性と体育の授業改造』(1970,明治図書),中村敏雄「体育の授業研究にのぞむこと」,『体育科教育』1976年4月号などである。

 

これは,まさに子どもの感想文を読み取っていきながら,授業を分析するというやり方だ。

 

B.c.2 「これはまだ,ほとんど皆無。断片的なものは,小林:上掲書のp.77,242,255などに」とある。

実は,この感想文の記述の質を決めてそれを量的に分析したのが,岡山の阪田さんであった。

その論文が発表されたのは1981年であった。

阪田尚彦(1981)「体育の授業における子どもの技術認識の構造と過程(1)-『客体に即した認識』と『主体に引き寄よせた認識』-」,岡山大学教育学部研究集録,第56号,pp.133-139

 

それを引き継いだのが,僕の研究であり,昨年(2013年)の神戸での中間研究集会で報告してくれた大後戸一樹さんの研究である。

 

B.d これは,「授業後のアンケート調査などがこれに当たる」となっているが,一番わかりやすいのは,高橋健夫さんの「子どもから見た授業評価」「形成的授業評価」だろう。

 

さて,最後Cの授業者の目を通しての授業の分析こそ,「実践記録」なのである。

体育におけるこの先駆けは,佐々木賢太郎『体育の子』(新評論,1956)である。

これまで確認してきたように,「実践記録」は生活綴方的教育方法に出てくる方法であり,教師が「リアリストの目」(菅忠道)で捉えた授業の記録なのである。

 

そして,小林さんのをさらに見ていくと次のような記述がある。

「いわゆる実践記録であるが,これが最近では,A.aおよび,B.cとの混合型へと移行してきた。代表的なものは下記」として,

学校体育研究同志会『体育の授業記録』ベースボールマガジン社,1975,いわゆる叢書である。

さらに,中森孜郎『保健体育の授業』大修館書店,1979である。

 

前者の叢書の特徴は,またの機会に譲るが,後者の本にはダンプ園長の「幼児の体育」が載っている。

そして,「高田さんの実践について」批評しているのが,久保健さんだ。

 

これが今の宮城の体育の先駆けとなったといってもよいかもしれない。

やはり生活綴方なのだ。

 

もう一度整理すると,要するに,実践記録は生活綴方をやっていた人の方法だった。

それがおそらく例えば,教育研究集会(いわゆる全国教研)などで,綴方以外の人にも流通していき,そこにそれぞれの教科や教材のもつオリジナルのやり方が付加されて,今に至っているのだ。

 

だから,体育同志会の場合は,生活綴方的だとしても,教科の内容,教材の系統などと実践の事実がデータとして書き込まれるところにオリジナリティがあるのだ。

 

だいぶ整理されてきた。

が,まだまだ読むべき資料はたくさんある。

 

 

 

 

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