みやぎ大会最終日
こんにちは。石田智巳です。
昨日,宮城大会が終わりました。
とてもいい大会になったと思います。
宮城のみなさん。
ありがとうございました。
僕は,最後に研究のまとめを行いました。
まとめといってもまとまるわけではなく,研究を振り返ることとこれからの課題を語りました。
昨日の午前中に作った文章に,若干手を加えたものを載せておきます。
そのため,ブログ調ではありません。
では,どうぞ。
3日間の熱い大会が終わろうとしています。
まずは,すばらしい研究環境を整えてくださった現地の実行委員の皆さんに感謝したいと思います。
ありがとうございました。
今大会は,震災からの復興,子どもの生活,そして東北が意識された大会でした。
テーマ性,あるいはメッセージ性のとても強い大会であったと思います。
一日目は御神楽に始まり,子どもの生活をとらえる方法である生活綴方のことを,青森から来ていただいた工藤ふみ先生に学びました。
ふみ先生の話を聞いた若い先生を,日作(日本作文の会)や綴方の会に持って行かれると少し心配しました。
そして,福島の今についても学びました。
基調提案の報告についてです。
生活と体育をキーワードにして,「子どもに意味のある授業をどう作るのか」という今大会のテーマをわかりやすく,10名以上の朗読劇で説明してくれました。
被災地からの問いかけ,「できることにどんな意味があるのか」はとても重いと思いました。
運動文化と生活をつなぐ橋渡しとなるのが,学びの意味。
意味のある学びのためには?・・・をみんなで考えようという「提案」だったと思います。
生活と教育をどう考えるのか。
体育同志会では生活と教育をどう考えるのか。
生活綴方は,子どもの生活の現実をつかむ方法として,日本で生まれた書くことによる教育です。
しかし,それだけでは生活指導になってしまい,教科指導とはなり得ません。
これらを考えるヒントなった実践は,いくつか散見されました。
さて,模擬授業や実習などで学生に指導案を作成させるときに,子ども観,教材観,指導観の三つを日案の前に書かせることになります。
体育同志会の提案集も,このような形式で書かれる場合が多いようです。
もちろん,いちいち「子ども観」とか書いているわけではありません。
この子ども観に当たる部分に,単なる「子どもの様子」ではなく,「子どもの生活実態」が書かれているかどうかが,生活と教育をつなぐ一つの鍵になると思います。
そして,そういう子どもたちに持ってくるにふさわしい教材,あるいは教材研究がなされることになります。
さらに,教師の願いと,指導の見通しが語られることになります。
体育同志会が,生活と教育という場合,おそらく,子どもの生活が問題になるのは,生活綴方で明らかになる生活だけではありません。
それをベースとしながらも,教材の世界と出会うことで浮き彫りになる生活性の方であると考えます。
だから,「ともにうまくなること」「ともに楽しみ競い合うこと」「ともに意味を問い直す」ことで,それら生活性を乗り越えようとすると考えてきたのだと思います。
ここにおいて,体育という教科の論理,とりわけ系統性研究や教科内容研究,そして,グループ学習研究へと向かうことができるわけです。
そういった観点から,今大会で報告された実践を見てみると,確かにそのようなストーリーで書かれたものが多くありました。
また,基調提案にも,そのようなストーリーを意識して,研究を進めようと促すものもありました。
昨日の夕方,世話人会議を持ったのですが,そのときにとりわけ中学校分科会では,子どもの生活のとらえについて様々な角度から議論されたようです。
子どもたちに書かせることで,子どもたちの器械運動に対する思いを読み取り,それをもとに合意を形成しながら,ルール作りを行うという北海道の沼倉実践。
子どもたちの生きづらさがソフトボールでどのように現れるのか,そしてそれをどのようにして技術学習やルールづくりで乗り越えようとするのか,という試みを行った滋賀の漆山実践。
打ったり,取ったりすることができないというのも生きづらさではないか,と問いかけます。
ここには,生きづらさを解消するためにこそ,「ともにうまくなる」ことの必要性を見て取ることができます。
さて,今回,研究局では,次の二つの実践に注目しました。
一つは,高学年分科会で議論された東京の石井実践です。
半数が私立受験をし,テストの点を少ない努力で効率よく取り,他人をじゃまして自分の立場を守ろうとする子どもたち。
あるいは,暗黙のうちに序列化し,本音が言い合えないというなかでも表面上はうまくつきあっている子どもたち。
石井さんは,「できる,できない」がはっきりする器械運動の授業で,学ぶことの意義や意味を見出させ,協同的な人間関係の構築を目指しました。
そのために,授業の感想や子どもたちの発言から,子どもの考え方や友達関係の変化を丁寧に拾い上げていきます。
そして,私たちが大切にしてきた異質協同の学びを子どもたちに与えるのではなく,生活班,習熟度別班,自由班で子どもたちにやらせてみて,どの学習形態がいいのかを考えさせていきます。
そこで子どもの本音を引き出していきながら,学びの意味を問い直します。
議論では,側転の学習における「技術」の位置づけをもう少し明確にした方がよかった,という意見も出ました。
次に,グループ学習分科会で議論された大阪の中川実践です。
この実践は,水泳とフラッグフットボールの二つの単元でグループ学習を行い,グループの質的な高まりを見ようとしています。
中川さんは,水泳のグループ学習では,うまい子がうまくない子に教えることで,うまい子にも学びがあると云います。
つまり,技能の傾斜が学びを生み出すということです。
しかし,ボール運動ではそうはいかないと云います。
この分科会では,愛知の半崎さんの実践も検討されました。
そのなかで,技能の高い子が意見を言ってそれをチームのみんなが聞くという関係,つまり技能による序列の関係では,チームはうまくいかないのではないか。
技能の高い子が中心にならなくても,「わかる」ことを中心に学習が進んでいるグループの方が,集団の質が高まっているといえるのではないか,という話にもなりました。
だからこそ,「何を教えるのか」を明確にする必要があると云うことです。
そして,体育同志会が大切にしてきた,「系統性研究」と「グループ学習研究」が力を発揮するのです。
ここには,「集団の質の何が高まるのか?」いうことは課題のまま残されましたが,種目ごとのグループ学習の違いを探るという新たな研究の軸ができたように思いました。
そして,中川さんは子どもの生活課題はある。しかし,いろいろな課題を抱える子がいても,体育の授業はやらなければならない。
そして,授業は科学を教えるもの,異質共同のグループ学習でうまくなることがまず大切だ,とずばり言い切ります。
うまくなっていく中で,人間関係がかわっていく。
友達の見方が変わっていく。
それが結果として,子どもたちの生活が変わるということなのでしょう。
もし,これを逆転させると,もしかしたら道徳くさい体育に堕落してしまうということなのかもしれません。
生活と教育の結合は,古くて新しい課題です。
最後に課題を述べます。
私たち体育同志会が掲げる運動文化論は,国民運動文化の創造と,そのための主体者の形成を目指しています。
これまでも学校外,あるいは学校を卒業後にどのような運動文化実践の主体者になるのか,が問われてきました。
そこから,学校体育をみたときに,「授業では何を教えないといけないのか」という課題が前景化されます。
今回,宮城で生活と教育を考えるにあたり,実践の前の子どもの生活をどう捉えるのか,そして,どう実践するのかがテーマとなっていました。
しかし,そのことと同時に,実践後の生活,とりわけ体育・スポーツ生活をどう考えるのかという視点から,体育実践を考えるという作業が必要になると思います。
それは,このみやぎ大会のあと,大阪大会以降も続いていきますので,集団で検討していければいいかと思います。
とても充実した3日間であったと思います。
来年は,大阪みのおに結集して,また熱い議論を行いたいと思います。
研究のまとめは,以上です。
お疲れ様でした。
大阪で,その前に冬に豊橋で会いましょう。
そして,この後,みやぎ大会事務局長から大阪みのお大会の実行委員会へとのぼりが手渡されて,大会が終了。