体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

ドル平泳法の指導について1 長野支部ニュース7月号より

こんにちは。石田智巳です。

 

先日,学校体育研究同志会の長野支部ニュース7月号が届きました。

小山吉明さんから送られてきました。

そのほかの支部からも送ってもらっていますが,水泳の指導で面白い議論が載っていましたので,紹介します。

小山さんの議論の投げかけは次回になります。

 

滋賀大会(第156回全国研究大会≪滋賀大会≫2018年8月4日(土)~6日(月)のお知らせ)は8月4日から6日までヴォーリーズ学園(近江兄弟社)で行われます。

webでの申し込みは終わりましたが,当日参加も可能です。

僕も講師をします。球技だけど。

ぜひご参加ください。

 

では,どうぞ。

 

久しぶりに体育のことを書くので,うまくかけるかどうか不安。

でも,これは会の内外で検討してもらう価値があると思ったので,書くことにしてみる。

ブログのアーカイブを見ると,体育に関わる内容について書くのは,今年の1月5日に昨年の冬大会の様子を報告して以来。

サボりにサボっていた証拠。

 

さて,長野支部ニュース7月号は,支部例会の様子で構成されている。

小学校4年生,小山先生の中学校1年生の水泳の授業が報告され,それを議論した内容になっている。

提案した小学校の先生は,ドル平で25mを泳がせるのだが,その後,15回のストロークで行くことを目標にする。

すると小山さんは,ドル平はまず基本的に進むことを否定したところから生まれたという解釈を示し,浮き沈みを教えるべきだという。

むしろ,進むことよりも,あえて進むことを強調せずに,呼吸と浮き沈みを多くすることの方が意味があるという。

 

そして,クロールもまたバタバタのクロールではなく,沈むことと浮くことを含んだクロールをこそ教えるべきだという。

そういえば,狭間くんがバタ足はむしろ水の抵抗になるというような記事をシェアしていたのを思い出す。

 

水中で頭の重さを量る実験をする小山さんなりの理論は,ドル平は顔を持ち上げて呼吸をするから,頭を持ち上げることでバランスが崩れて沈むのであって,沈んでから力を抜いて,足を軽く打つことで浮いてくるまで待つことが大切だという。

 

「力を抜いて浮いてくるまで待つ」これが大切なのは,僕もよくわかる。

頭がポカッと出てきたら,ペアの子が頭をチョンと触って浮いたことを知らせてあげる。

要するに,人間の身体もまた物理的な法則に従うのである。

娘を教えてみたときに感じたのだが,4年生ぐらいでも,浮いて呼吸をして沈んでも自然と浮いてくることがある。

昔は「レグレス(キックなし)」といったが,この伏し浮きになって力を抜いて浮き沈みの感覚を身につけることができること,さらにはちゃんと呼吸が確保できることはとても大切だと思う。

 

ネット上にあるドル平の映像の中には,進むドル平もある。

水泳協会でもドルヒラは位置付いている。

でも,形式は似ていても内容が全く違うものである。

 

体育同志会でも,ドル平は基礎泳法だという言い方もあれば,近代泳法批判だという言い方もある。

でも,大切なのは,形式と内容の内容の方なのだ。

内容が形式の指導を規定することになる。

だから,小山さんの場合,自然に浮いてくることが大切であって,手のカキも,キックも「つける」程度だという。

ドル平で「わかる」中味がはっきりしている。

 

少し結論めいた言い方をするけど,「ドル平泳法」というように「泳法」と書かれると,近代泳法を含めた泳法の外延を構成するイメージとなるのかもしれない。

それは基礎泳法ととらえることで,近代泳法への接続のイメージも生まれる。

しかし,近代泳法批判だとすれば,それこそ日本泳法のような速く泳ぐことだけを目的としない泳法の一員となる。

 

その意味では,ドル平は近代泳法へ接続する泳法という意味と,手や足の動きやそれによって進むことが重要ではなく,力を抜いて呼吸をしながら自然の法則を味わう「浮法」のイメージの両方があると考えた方がよい。

同志会は身体を否定的に捉えてきた(と思われてきた)歴史があるけど,こういう身体もある。

久保健さんは,「ドル平のバリエーション」の紹介をしている。

 

小山さんの強調点は近代泳法批判の側にあると思うが,前者を否定しているわけでもない。

ただ,議論をするときにイメージが共有できないと,わかり合えないだろうね。

これは,ドルヒラを位置づける他団体の人たちともそうなのだろうけど。

これからは,ドル平泳法とドル平浮法として話を分けたいと思う。

 

つづいて,呼吸の話となる。

かつては息を吸うために強く吐くことを指導していたが,今は強く吐くことよりも,残った息を吐き出すことに意味があるのであって,無理に強く吐く必要は無いという考え方が出ているという。

また,提案してくださった先生は,学年での割り振りで,クロールで13mぐらい泳げる児童を担当するといったが,クロールで13m泳げるということは,呼吸ができないということであるという指摘を受けることになる。

呼吸ができていないということは,要するに体育同志会の定義でいえば,「泳げない」のである。

 

ドル平は,子どもがつまずく理由を,主に呼吸ができないことに求める。

吸っても吸えていないのである。

だから,息つぎをして足の方が下になって沈んだら,軽くドルフィンキックを打って浮いてくるまで待って,手の動作を使い呼吸をすることを繰り返す。

呼吸を中心に組み立てられた泳法というわけ。

テキストでは,そのための下位の練習として,壁を持って呼吸を何回か繰り返してやってみることも提案されている。

吸えていれば続き,吸えていなければ動作が続かない。

 

さらに,小山さんは,鼻から吐くという近代泳法の指導法を体育に持ち込むことに疑問を投げる。

ドル平は,浮き沈みを利用するといったが,基本的には肺に息を入れたままにすれば浮くということの理解が必要になる。

それは,浮き身から息を吐き続ければ沈んでいくという実験をさせればすぐに理解は可能だ。

競泳の選手は,できるだけ顔を上げずに素早く吸うために,吸うまでに吐ききっておく。

小山さんは,途中で息を吐くことと,鼻から吐くことの両方に疑問を投げかける。

そして,スイミングの指導を受けた子は,確かに泳げるけども,「彼らは水泳のことが分かっていないのです」,「彼らは水泳が下手なのです」という。

これは,彼らが下手というよりも,「下手にさせられてきた歴史」(中村敏雄)というべきかもしれない。

 

次は,小山さんの実践の検討である。

小山さんは1年生の授業で「ドル平を2~3時間教える。1学期7時間くらいやる。最初の3~4時間でドル平を教える。そして、後の2~3時間でク ロールを教えればクロール100mのテストで結構合格する」と述べる。

そして,スローモーションクロールの方法を紹介している。

しかしながら,これは映像や画像などを使っているのだが,それが分からないので,文字で説明してもやはり分からないと思う。

そのため,今日は割愛。 

 

以前書いたかもしれないけど,僕は小学校2年から4年までスイミングに通っていた。

6年生の時にはブランクをものともせず,背泳ぎで緑区優勝。

しかし,確かに水泳のことが分かっていなかった。

水泳のことというよりも,泳いでいるときに自分の身体がどうなっているか分からなかった。

背泳ぎを学生に見せたときに,右手のかきと左手のかきが違うと指摘されて気づいた。

 

ドル平についても近代泳法的なイメージを持っていた。

形式中心だった。

今では,大分変わったと思うけど。

 

ところで,このアパートにはプールがある。

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15m程度の小さなプールだが,夕方になると結構な数の人が泳いでいる。

僕も昨日泳いできた。

お父さんが息子や娘に泳ぎを教えているのだが,浮き身,壁でのバタ足,身体を抱きかかえてのクロール。

前に参加した障害のある子どもの指導も基本は同じ。

手足をばたつかせて進むことを教える。

呼吸は後回し。

もしかしたら,世界中,あるいはアメリカを中心としたスイミングクラブ文化が,学校体育を含めて席巻してしまっているのかも。

 

その意味では,みんな保守的で違う考えが受け入れにくいのかもしれない。

でもね。

学校の水泳の授業でうまくなった人は少ない。

スイミングに通わせてもうまくしてもらえないからやめさせたという実例もある(うちのことです)。

それは指導者の問題なのか,指導法の問題なのか,条件の問題なのか,あるいは目標の問題なのか。

指導要領の中味は増えたけど,事故や管理の問題で時間数は減っているはず。

学校の水泳の目的と目標を再確認しないといけないかも。

 

次回は,小山先生が体育同志会にも向けて議論を投げかけているので,それを紹介します。

 

写真は,創文企画から出ている小山さんの著作。

ここに小山さんの泳ぐだけではない水泳の授業のことが書かれています。

是非読んでみてください。

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http://tomomiishida.hatenablog.com/