体育同志会の冬大会2017 その3 プロ教師の話
こんにちは。石田智巳です。
その1,その2と書いてみて,話をうまくまとめる難しさを実感しています。
枠が決まっていて,そこで完結させなければいけない雑誌原稿のような文章だったら,推敲をしてまとめます。
しかし,枠が決まっていないとなると,いったん頭に浮かんでくる内容を書き始めると,そこからどんどん文章が出てきて,途中で「これは終わらない」となります。
結構な割合でなります。
しかしながら、自分の思考を確かめているわけなので,これで良しとしたいです。
あんまり読まれるものではないし,ためになるものでもないので,仕方無しです。
さて,今日は矢部さんの話の続きです。
これは聞いてよかったです。
本当によかったです。
では,どうぞ。
矢部さんの講座は,アメリカにおけるコーラとコーヒーとスポーツから始まった。
講座は,「体育で作文をどう綴らせ,どう読み取るか」である。
体育で作文なんて,佐々木賢太郎さんみたいでしょ。
感想文ではなく,作文だそうだ。
あんまり書かせている人っていないと思うが,結論から言えば「子どもは書きたくて書く」のだという。
それは,書きたいことがあるからである。
では,何が書きたいのか?
さて,矢部さんの話は,4つの質問が用意されていた。
一つ目の質問は,ハードルの授業で出される。
授業の場合,発問というね。
その発問は,「ハードルの間隔は,人それぞれで決めた方がいい?それともみな同じの方がいい?」というものである。
これは,生徒たちに投げかけられるのだが,矢部さんはまるで模擬授業のように,参加者に投げかけた。
ちなみに僕もあてられた。
僕は,このとき,参加者としてどう考えるのかと訊かれているのに,どうしても教える側に立って考えてしまう。
つまり,このハードルの授業(単元)では,何が技術的課題になるのか?という問いに置き換えてしまうのだ。
そうなると,たとえば3歩のハードリングであるならば,「人それぞれ」と答えざるを得ない。
同じ間隔だと大きな生徒と,小さな生徒では,片方は3歩で,片方は4歩とかになるからだ。
しかし,陸上競技のハードル走そのものは,行う人に合わせてはくれない。
これは,「法(ルール)のもとでの平等」だという考え方。
ただし,中村敏雄さんがある本(どれか忘れた)のなかで,平等のように見せているが,身体の大きな西洋人が有利なようにできていると,ボートとかピアノの例を挙げていた。
矢部さんの授業では,「みんな同じ」が平等だという意見が多く出る。
それらの具体的な作文を紹介している。
ただし,「みんな同じ」というのは,「競技にあわせろ」ということを意味しない。
少なくとも,討論している矢部さんの生徒たちは,自分のこともだけど,みんなにとっていいということを考えているようだ。
そして,背の高い人には短く,低い人には長くなるが,一定の間隔にハードルを置くことを決める。
やさしいね。
それを矢部さんは,「ルールなき格差拡大競争に対するNOを突きつけている」と解釈する。
競技ルールに従わなければならないのではなく,かといって人それぞれでいいのではない。
彼らなりの論理でつくられたわけである。
これは意外だった。
大人が「子どもはこう望んでいる」と,勝手に思い込んでいることが多いような気がする。
かつて,中学校現場の先生達に話をしたときに,「子どもたちは上手い子と下手な子を分けてやりたがる」ということを言う教師がいた。
それは,教師に何の手立てもないから,お互いに嫌な思いをするのが嫌だから,そう答えるしかないのだということへは思い至らないのだろう。
問いは続くが紹介だけ。
二つ目は,バレーボールのローテーションをどう考えるのか。
つまり,「ローテーションはあった方がいいか?,ないほうがいいか?」
これは,体育同志会でも60年代初頭に,9人制ローテーションなしのバレーが中心だったときに,6人制ローテーションありのオリンピック競技が登場して,議論になったことと同じ。
これも中村敏雄さんの本に書いてある。
ただし,この時は教師が提案したところ,反発がすごかったという。
今は,競技ではローテーションありが中心である。
そして,矢部さんは提案をしていない。
自分たちで決めるように投げかけているだけ。
結論的には,子どもたちはローテーションありで,でもセッターを固定化するというルールを選ぶという。
もちろん,毎回同じではないだろうが。
矢部さんの場合,バレーボールの深いルール(や技術の発展史)研究に支えられて,問いがなされる。
アメリカのスポーツなのにローテーションがあるというのは,アメフトや野球などからすれば異色なのかもしれない。
そのことを教師の素材解釈によって教材づくりへと向かわせるのではなく,子どもたちはどう考えるのかという方向に向かわせる。
そして言うことがニクいのだが,教師がバレーボールを研究しても答えが出せない問題(難問)は,子どもに訊く方がいいと。
これをナラティヴ・アプローチでは,「問題の外在化」という。
*くわしいことは,どっかに書いてあるので参照してください。
近代スポーツに出会うときに矛盾が生じるというか,さまざまな嗜好が出てくるというか,こういったときに,「どうしたい?」と訊くわけだ。
そうすると,冒頭に書いたように,生徒たちは自分自身の問題として引き取り,一生懸命考えて書くという。
矢部さんは,「嬉しくないこと」と「嬉しくないことをどう嬉しいことに変えていけばいいのか」を書かせるという。
要するに,のっぴきならないというか,抜き差しならない状況に身を置かせてしまうのだ。
そして,書かれた作文から,貧困,格差,不平等に関わることを拾っていくという。
貧困は,経済的なものだけではなく,意味や関係の貧困をとりあげるともいう。
それと,子どもとともにいる教師にしか拾えない言葉があって,それを拾ってやるという。
この辺は,参加者もみんな納得していた。
一般化してしまうと,たいしたことではないけど,「あの子がこれを書いたのか」という「あの子」のことが大切になる。
僕からの質問は,いつ書かせるのですか?というもの。
この意図は,小学校の先生は基本担任だから,いい方は悪いがいつでも書かせられる。
しかし,中学校の場合,授業が終わって書かせると,次の時間には別の先生が来ることになる。
そしたら,矢部さんは次の時間に数学の先生が「体育の後だと,ずっと書いている子がいて困る」と苦笑いをするそうだ。
「帰りの会で書かせてください」と別のクラスの担任に言うこともある。
そして,書かれたものに直接赤ペンを入れずに,気になった作文を拡大コピーをして,みんなの前で赤ペンを入れていく。
しかも,体育館には,それら議論の跡や赤ペン入りの作文はそのまま貼り出されて,他のクラスの生徒もそのプロセスを見ることができるようになっている。
これって,生活綴方の手法の変形でもある。
一人の悩み,悲しみ,よろこびをみんなのものにしていくわけだ。
文化研究と生活綴方を通して,よりよい文化創造の種をまき,それらをくぐり抜けることで,よりよい人になっていく。
しつけ道徳的な「学びに向かう力,人間性」ではない,その種目に固有の内容をくぐり抜け,合意を形成していく中で人間形成が行われる。
このための素材の解釈がなされ,そして教師と子どもで教材づくりがなされているといえるだろう。
過程としての文化という考え方にも触れていた。
だんだん難しくなっていくので,自ら制止をしていた。
まだまだ書きたいことはあるけど,このぐらいにしておきます。
最後に,奥さまの智江子さんは,しきりに「う~ん」「あ~」とうなずいていて,終わったあとは「よ~く,わかった」と満足そうに言われていました。
それは,おそらく他の参加者も同じだったことでしょう。
*残り二つの質問を書きませんでした。本人に直接聞いてください。