体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

体育同志会の冬大会2017 その1

こんにちは。石田智巳です。

 

体育・スポーツの記事を書こうと宣言したので,とりあえず手始めに12月27日28日に行われた冬大会について書こうと思います。

久しぶりだから,うまく書けるのかは不安です。

では,どうぞ。

 

2017年の冬大会は,これまでとは大きく変わる大会だった。

一つ目は,例年,12月26日~28日の3日間だった大会を,27日~28日の二日間に減らした。

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これについては,よかったのかどうかの検証が必要になる。

というのも,26日の午後に全国委員会が開催されていたからだ。

全国委員会は26日の夕方に終わるので,帰る人は帰ることができる。

僕らは用事がないので,部屋で塩貝さんと滋賀の森重さんとずっと飲んでいた。

僕は夜中の2時ぐらいに寝たが,その前に制野研究局長や,前田さんがやってきて,侃々諤々やっていた。

塩貝さんは飲んだもん勝ちになっていた。

時間に余裕があったのはよかった。

 

次の朝は10時からパワーアップ講座。

そして,昼から大会となった。

 

まずは,委員長挨拶。

挨拶ばっかりしている。

提案集に挨拶を書いて,大会速報の冒頭にも挨拶。

12月には同志会ニュースで委員長挨拶を書いているので,何をどこに書いたのかがよくわからないぐらいに挨拶を書いている。

 

それから,研究局発題。

冬大会が変わったのは,日数が減っただけでなく,やり方も大きく変わった。

課題意識は,ムズ冬(難しい冬大会)の克服と,参加者の拡大。

今回は,最初に全体会で丸山さんによる体育同志会の歴史と課題についての勉強会。

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少し難しかったけど,仕方がないね。

大切なのは,「同志会は技術指導の会(だけ)ではない」という理解。

もちろん「技術指導」を大切にしてきた。

しかし,スポーツの主人公になるということは,技術指導によって技術の獲得,あるいは技能形成をすれば事足りると考えるわけではない。

 

丁度,27日の大会が始まってしばらくして,メールで大修館の阿部さんから『体育科教育』に原稿依頼がきた。

内容は,「思考力・判断力・表現力は,体育の中核になるのか」であった。

これを考えるときも,運動学習場面に限定して「思考力・判断力・表現力」を考えればよいというものではない。

もともと,今回の学習指導要領では,学んだことを生かしていくという趣旨があったし,体育においては「豊かなスポーツライフ」の実現のためにという上位の目的があるのだ。

だから,技能を身につけたところで,スポーツライフに結びつかなければ達成できないのだ。

ということは,如何に学校の中の部活動や体育的な行事を含めて,学校外でのスポーツライフに生かしていくのかが考えられる必要がある。

逆に言えば,豊かなスポーツライフが実現できる力そのものを念頭に置いて,それに必要な「思考力・判断力・表現力」を考えなければいけないということだ。

おお,なんかよくわからないけど,そんなことを書くことになりそうだ。

 

ではなくて,体育同志会が「技術指導の会だけではない」というのは,技術指導は大切だけど,それだけではないということ。

そして,この理路がわからないと,体育同志会の性格や使命がぼけるだろうね。

技術指導だけではなく,運動文化・スポーツをわがものにするということだ。

ここでもうわかりにくくなってしまった。

「運動文化・スポーツ」という表記が,この両者の関係を捉えにくくしているということだ。

これについては,どっかで書いているような気がするが,ひとまず置いておく。

「スポーツを含む運動文化」や「スポーツを中心とする運動文化」という方が近いと思うが。

 

スポーツを定義するということが難しいのだが,1960年段階では体育は「運動文化の追求を自己目的とする教育」といういい方がなされた。

そして,運動文化の中核は技術だとして,技術の獲得が目指されることとなった。

しかし,運動文化も矛盾を抱えているため,それを作り替えていく必要があるとされた。

そして,要素練習とゲームの中間にあって,その運動文化のおもしろさをうちに含む内容を中間項といって,各種目のそれを探したり,あるいはつくり出したりした。

 

しかし,こんな小市民的な新しい文化づくりに対して,批判的な意見が出される。

そして,運動文化の持つ歴史,階級性,思想などをとらえる社会科学的な研究の必要も出され,「運動文化の継承・発展」に「国民運動文化とその体制の創造」というテーゼが合わさって,1963年に運動文化論の構想が出される。

難しいね,やっぱり。

 

その後のことを書くとやっぱり難しいだが,もう少しだけ。

その後,運動文化・スポーツをわがものにするという観点から,運動文化の技術,組織,歴史を学ぶ必要が出される(中村敏雄)。

さらに,スポーツを総体としてとらえるという観点から,運動文化の技術,組織,社会(条件)を学ぶという考え方が出される(草深直臣)。

これを3つの層で考えるという考え方が出される(伊藤高弘)。

しかも,1976年より「スポーツの主権者」という観点から研究が進められることとなった。

もちろん,荒木豊を中心として,技術指導の系統性研究も進められた。

 

体育同志会のすごいところは,中村さんや草深さんのように,スポーツそのものをどうとらえるのかというところから入るところ。

丹下さんは,運動文化の中核は技術だといったが,それでは狭い。

そして,技術,組織,社会を教科内容(括弧付き)として,それと学力と対応させる。

学力規程論が出てきて,学力形成論へといたる。

 

もちろん,社会性やスポーツ権などがなかなか授業実践に降りていかないという問題もあった。

それでも,2017年山梨大会は「スポーツの主権者」が表に出た。

もうやめておくが,単純に「グループ学習と系統学習の統一」だけではないのだ。

 

丸山さんの話から進めることができませんでした。

 

 

 

 

 

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