重松清『赤ヘル1975』(講談社文庫,2016)を読む
こんにちは。石田智巳です。
今日は,少し前に『赤ヘル1975』を読んだので,思ったことを書いてみたいと思います。
これは,オススメです。
特に,僕のように広島に住んだこともある人や,野球が好きだった人には,なんとなく懐かしさを感じることになるでしょう。
では,どうぞ。
重松清さんは,僕の好きな小説家の一人だ。
小説だけでなく,以前も紹介した『スポーツを読む』(集英社新書)や,鶴見俊輔さんとの対談本『ぼくはこう生きている君はどうか』(潮出版),教育についていろいろ取材して書いた『教育とはなんだ』(筑摩書房)なども面白く読んだ。
小説についても,このブログで『青い鳥』を取り上げた。
BSで映画を見て,本を買い,最後の「カッコウの卵」にいたく感動した。
重松さんの話は,基本的にというか何かを抱えた人が登場する。
わかりやすいのが,いじめられている子どもであり,いじめている子ども。
いじめについて執拗に書いているともいえる。
『きよしこの夜』や『青い鳥』の村内先生のように,ドモル人も出てくる。
これは,重松さんの実体験のようだ。
がんと診断された母親,そしてその子ども。
病気で入院している子ども。
小さい子どもがいるのに重い病気になってしまった父親。
決してハッピーエンドにはならないけど,最後にメッセージが刻まれるように仕立ててある。
『赤ヘル』は,600ページ強と,やや大部な文庫本だ。
その分,いろいろな人の抱える問題やテーマが輻輳して,それぞれのメッセージを残しながら,最後はやはり少し寂しさを残して終わるいつもの重松小説だった。
それと,この本は2013年に雑誌に連載されたのだが,文庫本が販売されたのが昨年2016年というところにも意味がある。
わかると思うけど,昨年は広島カープがセ・リーグ優勝を成し遂げた。
その年の8月に,優勝を予感させるように出てきたわけで,「こりゃ,はー,見こしとったとしかいいようがないけーのぉ」とつい広島弁が出てきてしまうのだ。
なに,ちょっと変?
「こまいこと,気にしんさんな」。
僕は,1987年から1年間広島市に住んでいた。
翌年は福山に行き,その次の夏に東広島に引っ越した。
その後もアッチコッチに行って,でも10年以上広島県内にいたことになる。
やはり最初に広島に行ったときの印象は強烈だった。
大学の同級生と話していて,変な言葉をしゃべっとると思っていた。
だって,小学校1年生でも,「わしも行くけーのぅ」と,菅原文太さんが「朝日ソーラーじゃけん」というのと同じ言葉をしゃべっていたぐらいだから。
しかし,むしろコッチの名古屋弁の方がおかしいようで,笑われた。
多勢に無勢を感じた。
そのとき僕は,「がー,がー」言っていたようだ。
三河の友だちは,「らー,らー」言っていたが。
彼は国府高校の出身だった。
「こうこうこう」。
冬大会から名古屋の実家に帰るときに前を通った。
セブンイレブンでおでんを買ったときに,ミソがないのに驚いた。
名古屋は甘い赤味噌につけて食べる。
うどんのだしが薄かった。
名古屋は真っ黒け。
お好み焼きが全く違う食べ物だった。
お好みソースがあった。
コーヒーもおつまみはつかない。
今ではすべて普通になったが。
路面電車に驚いたし,川の多さにも驚いた。
中核派が,大学のなかを行進しているのに驚いた。
「中曽根殲滅」といっていた。
あのときは,中核派の意味がわからなかった。
今もよくはわからないが。
堀川町のラーメン屋でバイトをしたが,言葉がわからなかった。
今でも覚えているのは,常連のお客さんが「ミソ,やおめ」っていったことだ。
「ミソ」はミソラーメンだとわかるけど,「やおめ」って何だ?
「やおめのジョナサン」か?
そのまま,お店のにいちゃんに「みそ,やおめ」と伝えたら,「おっ,わかった」といって,ミソラーメンがでてきた。
「『やおめ』ですよ?」というと,「ほーよ,麺やおめよ」という。
「???」
「やおめは,柔らかいのことよ」
「ふ~ん」
あの頃は,まさにバブル景気で,堀川も流川(ながれかわ)も,ものすごく人がいた。
あまり行かなくなったが,今は少ないよね・・・・。
信じられないぐらいに違う。
ラーメン屋のにいちゃんとはよく遊んだし,いろいろな広島弁を教えてくれた。
あるときに,「イシダくん(ダにアクセント),標準語で「ヒラウ」って広島弁で何ていうかわかるか?」と聞いてくるので,「『ヒラウ』って言葉がわかりません」っていうと。
「おお,間違えた。『ヒロウ』を広島弁で何て言うかだった」ときた。
重松さんもうまいこと表現しているけど,広島の人は広島が日本の中心だと思っている。
福岡の人も,「自分の言葉は標準語だと思っている」と言ったときには絶句した。
名古屋の人はどちらかというと自虐的のようだ。
地域によっても違うと思うけど,「がんす饅頭」の「がんす」は聞いたことなかった。
あと,一度だけ「つかあさい」を聞いたことがある。
というか,「やってつかあさい」=「やってください」といわれたことがある。
これは,さすがのラーメン屋のにいちゃんも言わなかった。
しかし,山本コージ選手は,「任しといてつかあさい!バックスクリーンにぶち込みますけー!」(438ページ)と言った。
それと,「君の」「おまえの」にあたるのが,「こんなの」となっていたが,これは1年間の広島生活では聞いたことがなかった。
「イシダくんの(ダにアクセント)」と言われたからかな?
さて,話は広島カープが初優勝した1975年の春から,優勝パレードまでの期間。
泣かせるエピローグは年明け。
春に主人公の一人である中1のマナブが東京から引っ越してくる。
このマナブも重松小説の登場人物らしく,あやしい商売に手を出しては失敗し,引っ越しを繰り返す父親をもっていた。
その父は妻(マナブの母)に愛想を尽かされて出て行かれてしまっていた。
東京もんのというか,よそもんの悲哀も描かれている。
そして,広島で出会う子どもたちがいかにも広島っていう感じで共感できる。
もちろん,広島は敗戦から30年,つまり原爆投下から30年という時期であり,今よりも当然原爆の爪痕が多く残っている土地だ。
それに苦しむ親がいる。
複雑な事情の老夫婦も出てくる。
みんなで千羽鶴を折ろうという子どもも出てくる。
そこに偽善を読み取る子どもも出てくる。
新聞記者を目指しているけど,国語力がない子どもも出てくる。
重松小説の登場人物は,どこかに何かを抱えている。
肝心の話の筋はここには書きません。
是非,読んでみてください!!
とりあえず,広島市内で生まれ育った妻に読ませてみよう。